自分のことになると短歌にならない

moru
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公開:2025/12/28

 自分にとって、記憶に残るような体験とか、ライフイベントから短歌が作れない。やりたくないのではない。できない。

 どうやって歌を作っているかと言うと、思いついた五音とか七音とか、さらに少なくてもいいのだけど、そういうものから、だんだん三十一音規模に何かが膨らんでいって、できる。だから、本を開いて、ページをめくりながら、なんとなく頭に引っかかった言葉から短歌を作ったりすることはよくある。それで連作ができるのか、というと(できていると仮定する)、同じ人間のあたまの働きというのはある時期同じ方向を向いているらしく、なんとなく似たような方向を向いた歌の群れが発生してくる。その段階で、「これはこのテーマについての連作なのでは」と自分で考えてみる。そうすると、テーマに関わる単語をいくつか思いつくので、そこから連作になる。『幻獣短歌』に出した20首連作ふたつも、そんな感じでできた。創刊号は「都市」だし、第二号は「戦争」なのは、読んでいただければ一目瞭然かと思う。

 しかしこれは持続可能性があるのだろうか。本を読んでいると短歌ができるとして、この世界には読み切れないほどの本があるので、案外持続可能性はあるのかもしれない。ただ、それを読んでみなさんそれで面白いですかね……? やっぱり作る以上は読んでもらいたくて作っているので。

 もう一つ、私は私なりに生きていると悩みとか苦しみとかあって、そういうものは短歌にならないものか、と思う。短歌では苦悩を表現しなくてはいけないと思っているわけではまったくない。そういうことではなくて、わたしの場合、短歌を作るということは、現実に流通している言葉とは一対一には対応しない別のレイヤーの言葉の世界を作ることなのではないか、と思うのだけど、現実の生活の、私が抱えているところの主だったところの苦しみたちを、そのレイヤーにもっていくことができたら、自分の言葉の使い方が一つ広がるのではないか、そういうことがやってみたい、ということである。不謹慎だけど(自分に対して不謹慎なので別にかまわない)、それができたら「面白い」のではあるまいか。

 と、ここまで書いて思ったのだけれど、これは短歌研究評論賞で次席になった評論のテーマそのままですね。自分ではできないことができているひとはすごいなあ、ということを書いていたのかもしれません。