運動について

moru
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公開:2025/12/21

 運動について考えている。

 私がいまやっている社会運動は職場の労働組合運動だけれども、世の中にいろいろ文章を発表したりするのも運動といえば運動だと思う。少なくともわたしは結構そのつもりでやっている。

 おそらく、短い文章のSNSは運動に向かない。運動の道具にはなるだろうけど、ここは運動をする場所それ自体ではない。たとえば労使交渉では、たいへんな時間をかけて、たいへんな量の言葉のやり取りがおこなわれるのだけど、その総量を140字で割ったらtweet何個分になるのか。

 運動は連帯しないとできない。あるいは連帯を希求しなければ。一人運動というのはありそうでたぶんない。少なくとも誰か、働きかける相手がいないと運動にならない。アッシジの聖フランシスコが鳥に説教するのは運動のプロトタイプかもしれない。

 そうやって運動していると、運動は拡大したり分裂したりする。いま、連帯とか統合とか、SNSでアクティビスト寄りの人からは割と不評で、「分断はよくない」と言うと批判されたりするのだけど、戦後日本に限ってみても、新旧の左翼諸党派が微差によって分裂していったり、部落解放運動が分裂していったりした様を多少なりとも知識として持っていれば、そうそう「分断」を放置していいとも思えない。分断は実態として社会にあるとして、分断の線をどこに見い出すかは結構重要だ。

 だいたいにおいて、説得すべき相手(「敵」と呼んでも良い)に向かっていくより、目標を共有しているものどうしが、仲間の「特権性」や「無自覚性」などなどの自己批判を迫るほうがハードルが低い。目標を共有しているのだから当たり前だ。そこには容易に分断が生じる。

 そこで連帯が必要なのだけれども、幅を広げてゆけば利害や意見の対立が生じる。そうなるとそれは政治だ。清濁併せ呑む、それが運動家としての成熟なのか。なんだかそれもいやだと思う。必要なのは清濁併せ呑むリアリストになることではなくて、理念について本当に考え抜くことなのだと思う。それは「敵」とされるもの(個人や集団でなくてもよい、というかむしろそうではなくて広義の制度のことなのだと思うけれど)について、それはなぜ「敵」なのかを真剣に考えることなのではないか。これはもう、嫌いなものについて延々考えるということなのでかなりつらい。