子規は読めるが司馬遼太郎がよめない

moru
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公開:2026/2/25

 『左千夫全集』を繰っていたら、「非地租増徴論」「内地雑居の営業的準備」といった政論が収録されていることに気が付いた。調べてみると伊藤左千夫はもともと政治を志しており、建白書を提出したこともあるらしい。

 しかし左千夫にこのような論説があることは、左千夫の師である正岡子規が新聞『日本』を拠点に活動していたことを考えればそれほど不思議なことではない。『日本』は明治期を代表する言論人といってよい陸羯南が経営する政論新聞だからである。

 そもそも、子規の「歌よみに与ふる書」を読めばすぐわかるように子規はナショナリストである。そして子規の歌論のナショナリズムは、ナショナリズム一般ではなくもうすこし特定可能なナショナリズムで、まさに明治中期の『日本』周辺で唱えられているある特定の型のナショナリズム、日本近代史研究者がしばしば「対外硬」派と呼ぶタイプのナショナリズムである。権力者たち(藩閥/旧派歌人)は、本当は日本の国益を損なっているのであり、民間の愛国者(政党人・言論人/新派歌人)による革新こそが真のネイション・ステイトを立ち上げることができるのだ、というタイプのナショナリズム。つまり「野党のナショナリズム」である(鉄幹『東西南北』の虎剣調もこのカテゴリーに入ると思うけれども、たぶん子規のほうがずっと洗練されており、陸羯南がこの思想潮流のなかで洗練されているのに対応している)。

 私はたぶん当たり前のことを述べているだけであり、だからこそ司馬遼太郎『坂の上の雲』には子規が登場するのだと思う。が、私は『坂の上の雲』を読んだことがない。「司馬史観」というのは日本近代史研究者のあいだでは不評なので、それがいかなるものであるのか、読んでみようと思ったことはある。しかし読めないのである。ちょっと読むとどうしても先に進めない。なぜなのか説明できない。「気持ち悪い」と言ってしまえばそれまでなのだけど、読めないのでちゃんと説明することができない。

 元来、歴史小説一般が苦手である。本当に仕事上必要な知識であるとわりきって『夜明け前』は読んだけれどもつらかった。『戦争と平和』も結構厳しかった。現在のわたくしの生息地から離れれば大丈夫なのかもしれず、『クォ・ヴァディス』はそれほど引っかからなかった。『ハドリアヌス帝の回想』は大丈夫だったけど歴史小説なのかあれは。『菊帝悲歌』はおもしろかったけど、たぶん歴史小説ではない(日本中世史・文学研究者が読めばまた違う感想を持つのかもしれないけれども)。 

 話がだんだんずれていった。ともかく左千夫の政論についてはどこかで注釈を書いておきたいと思っている。