アメリカ合衆国政府によるベネズエラ攻撃の報に接しつつ、最初に思ったのは「え、まだやるんだ、こういうの」ということだった。
カリブ海域でアメリカ合衆国が軍事力・政治的影響力を行使しようとするのは19世紀にはじまる、というのは世界史の教科書に書いてあるわけですが、これはわたしにとっては「歴史」ではなくて同時代にニュースで知っている。1979年から1990年まで続いたニカラグア内戦であり、1989年のパナマ侵攻である。私は1976年生まれだから、89年にノリエガがアメリカ軍に拘束されたのも、90年にニカラグアで和平が成立したのも知っている。覚えている。
戦争の記憶の風化、というと日本では、「あの戦争」「先の戦争」の記憶の「風化」が語られるわけだけれど、こういう状況を迎えてみると、「先の戦争」と現在のあいだにはやっぱり冷戦があったのだなということを思い起す。
わたしは冷戦時代のこどもだった。米ソのどちらかが核兵器を使えば人類は滅ぶと大人たちはよく言っていたし、「核戦争後の世界」というポスト・アポカリプス的イメージはあちこちに転がっていた(映画版のナウシカが1984年である)。近所の元航空自衛官のおじさんは、ソ連機の領空侵犯が起きた時の緊急発進の経験を語っていた。覚えているいちばん古い夢の記憶は「中曽根康弘が徴兵制を復活させて自分も徴兵されるので、近所の商店街の雑貨屋(荒物屋)のおじいさんに、戦場で逃げて生き延びる方法を聞きに行く」という夢だ。まだ徴兵年齢に達していなかったと思うけど。
そして中南米といえばキューバだ。米ソのどちらかが核兵器を使えば人類は滅ぶが、いちばんやばかったのはキューバ危機の時だ、と大人たちは言っていた。
わたしたちは「平和な時代」を生きてきたつもりでいたけど、「冷戦」がやっぱり「戦」だったとすれば、いま風化することによって何かを引き起こしているのは「あの戦争」「先の戦争」の記憶ではなくて、冷戦の記憶なのではあるまいか。しかも日本だけではなくグローバルに。
実際のところ現在でも地球上には人類を滅ぼせるだけの核兵器がある。いずれにしても記憶は「風化」するので(実はこの言葉の意味も私はよくわからない)、語り部が語る以外の方法で歴史は残さなければいけないのだけれど、もしかしてわたしたちが「冷戦末期のこどもたち」(ついでに言うと氷河期世代の真ん中でもあります)だとすれば、何か語っておいた方がよいことがあるのかもしれない。