曲がりくねった,デコボコの,ざらざらの

motcham
·
公開:2026/6/8

小説でも漫画でもゲームでも何でも

物語ってのは、

困難をベースに組み立てると良くて

一筋縄では行かないほど魅力的な物語になってゆくものとされているらしい。

言われてみれば、確かに

起承転のどこかで困難が発生して解決するなり何なりという筋道が定石というものだろう。

そう考えるとなるほど

かつての自分が 小説を書こうとして

苦難の道に迷っていたわけだな、と思った。

当時の自分はひどい世間知らずの情報弱者で

色々とマイノリティーであることを

まだほとんど認識していなかったから、とか

自分を取り巻く困難にすら気づいていなかったから、というのが

要因としてかなりの大きさを占めそうだ。

いわゆる「空気を読む」のは上手かったので、

周囲との違いに気づかなかったというわけではない。

自分という例が少数派の「例外」であるという実態を知らなかっただけのことだ。

なので、書き手になる以前に読み手の読解力の時点で

恋愛モノって「難しい」なぁ…とかは、思っていた。

例えば、ある種の三角関係。

あるいは、パートナーを嫌いになったわけじゃないのに、新しい人を好きになったから別れる/別れたという話。

何故たった一人を選ぼうとするのか理解できず

(これは自分が恋心というものをいまいち理解していないからでは断じてないはずだが)

「三人で付き合ったらいいのに…🤖」とか思ってしまうのを

「フィクションだから不条理や不可思議でもおかしくない」みたいに思っていた。

恋ってそういうものなのか…大人になったら分かるのかな…とかじゃなく。

フィクションの全てをファンタジーとして見ていた節があり、

要は「何でもアリ」だった。

自分と違う様々なキャラクターの在り方に対して「何でもアリ」で受け止めていたもんだから、

現実にも存在する恋愛感情というものを理解できなくても不思議じゃなかったし、

常識破り・掟破りの自覚が無かった頃の自分には

定石やセオリーと呼ばれる概念自体をうまく認識できなかった、というわけだ。

まぁ、常識による定石を学んだところで腑に落ちないことには変わりなく、自分の思想に反するシナリオは取り入れ難いわけだが。

(実際、ポリアモリーの方々は良好な関係を維持できるそうだから、独占欲は恋愛感情を構成する必須項目ではないと言えるはずである)

(それに、今となっては世の常識もかなり改革されつつあり、物によっちゃ「そんなの古い考え方だ」と言える時代が来つつある。いいことだ)

自分から見れば、現実のほうも

「重婚が出来れば不倫問題なんて発生しなくならないですか?」とか思ってしまうのだけれど

たぶん、そういう問題じゃないのだろう。

恋と婚姻は地続きな人が多いし、独占欲と婚姻も地続きな人が多いのかもしれないな、くらいの予想はつく。知らんけど。

恋愛も性愛もピンと来ない自分は、

絵描きとしてもオタクとしても少数派のようで

こうするといいよ!という

メソッドが実践不可能だったりする。

『性癖』や『フェチ』を追求すべしと申されましても

エロチシズムをいまいち理解していないので難しい。

それはそれとして、描きたい絵のために人体など勉強していたりはするけれども。

近年、自分はつくづくイレギュラーの塊だな、

と思うようになった。

良くも悪くも無く ただ イレギュラーだな、と思えるようになった。

この社会において。

あるいは、多様なヒト科の中でも、そこそこ珍しい個体として。

そして、イレギュラーの塊というのは

現実が既にもう、困難の連続なんである。

ひとつも重篤なイレギュラーはないのに。

それこそ生死に関わる大病だったり、難病指定の病だったりしたら

(生死の淵を彷徨ったこともあるにはあるが過去の話だ)

インターネットの遥か隅っこでくだを巻いてなど居られまい。

あくまで「ちょっとしたイレギュラーなりの困難」であるが、

決して「ちょっとした困難」ではない。

塵も積もれば山となるというもんで

いわゆる人生ハードモードである。

立て続けに困難が降りかかり、本邦のシステムに助けられている。

生き長らえている。

重篤でなくとも、深刻な場合はある。

困難が物語を物語足らしめるというのなら、

自分の人生は随分と物語ちっくだということになるんじゃなかろうか。

言うてあまりパンチの効いた内容ではないので

他人を楽しませる程の「濃さ」ではないが

自分で自分の人生が「おもろい」な、と思えるのは

ある意味、運が良いなと思う。

少なくとも退屈しない。

まぁ、本当に退屈した憶えがないのは、気が散りやすいADHDだからかもしれんけど。

退屈しようがしまいが『事実は小説より奇なり』とは言える。

とは言えども珍妙奇天烈というほどではなく、

切り売りするほどのエンタメ性も無けりゃ

タメになる話も無いのだけれど(イレギュラーだからね)

『普通』じゃないからって そのくせコンテンツ足り得ないからって、

ダメなわけじゃない。なんにもダメじゃない。

心底そう思えるまでに

洗脳を解くのに、10年、かかった。

洗脳なんて怖い言葉を使うと大袈裟と思われるかもしれないが、

考えてもみてほしい。

10年もかかったのだから、一人の人生の中では大事である。

何も大袈裟ではない。

自分の事となると矮小化する悪癖も、10年かけて治した。

近頃話題の自己肯定感とかいうものに

自分は10年以上前から向き合っていることになるが

どうも肯定のニュアンスが独り歩きしているような

却って悪化しそうな解釈というのか理論立てというのか…が目立つようにも思う。

自己有用感とか自己効力感とか呼ぶべきような概念と

ごっちゃになって語られるのは大変よろしくない気がする。

自己肯定というのは、ご自愛というのは、

正しく自己をフラットに認識することから始まるんじゃないかなと思うのだ。

そのスタートラインに、やっと立てた気がしている。フラつきながらも。

よりによって親に理解されなくて、

罵詈雑言に傷ついたりなんかして。

仕事にありつけなかったりして。

世の中の『普通』なんてちっとも中央値じゃない

平均ではあるのかもしらないがそれは上の層がブチ上げているため

自分の想定していた『普通』とは似て非なる「フツウ」の概念

要求される基準があまりにハイスペックであることを

何も知らずにフツウを目指してしまった。

無謀にも近づこうとした。

しかし、少しできるようになると更なるフツウを親から要求された。

フツウに仕事と家事を両立できる身体スペックは無いため、みるみる失速

心身に支障を来し、人生二度目のドロップアウトをした。

一度外れたレールに戻れる、軌道修正できると思っていたのが、そもそも間違いだったと今では思えるけれど

当時の自分には堪える挫折だった。

そんな自分に追い撃ちさえ加えるような鬼畜の居る地獄で

休息にならない休養をしているうちに、世の中は急激に変わり始めた。

やがて実家は地獄だと気づいて逃げ出そうと足掻き始めた頃、

世の中の変化は更に加速し、めまぐるしく変わった。

本邦の政府が遅まきながら性的少数者への不器用な配慮を始めたりなんかして、

変な誤解がありつつも透明だった少数派は広く認識されだして

巷の人間は、多様性の時代なんて称し始めた。

(人類はずっと他種多様なのに、時代とは…?)

(文明開化に倣って人権開化とでも呼びたいところだが。もちろん皮肉として)

性的少数者であることは自分の人生を直接的には困難にしていないのだが、

社会不適合者であることは当然ダイレクトに人生を左右する。

時を同じくして、フツウという壁を壊すというか蹴り破るような人々を見た。

フツウじゃないことを武器や叩き台にする人々を見て、そこに希望を見出そうとした。

希望を見出そうとして、絶望に近づいていった。自分から。

フツウじゃなくても頑張っている人々を見て

社会に適合する方法が一層多様化していくのを見て

つまり自分(だけ)の努力が足りないのだ、

自分(だけ)が悪いのだと一層思うようになっていた。

けれどそれはもう、それこそ認知の歪みというやつで。

個体差なんてのは、本来あって当たり前で。

個々に事情というのは異なる

似ているところや同じところがあっても

別のところが足を引っぱったなら

同じようには事を運べやしないんである。

(『毒になる親』たちから物理的に逃げているだけでも、よくやった方だと思う。完全に逃げ遂せるまでは、まだ時間がかかりそうだが…)

イレギュラーのn段重ね

マイノリティーの中で更にマイノリティー

そんな実態では、他者の生き様から学ぶのは

誰かにロールモデルを見出そうとするのは

無茶苦茶なんである。とかく前例がない。

そもそも何を以て成功と呼ぶのかを

資本主義社会ありきで語るのは、如何なものか。

かと思いきや清貧をヨシとするような風潮を叩き込むのもまた、如何なものか。

「人並みに稼ぐこと」が「絶対的なゴール」だと思い込んでいたのは

自分を苦しめた要因の一つだった。

本邦の法における『納税の義務』というのは

健常あるいは健康であれば納税の義務が生じるほど安定した稼ぎを得られる、という順序で語られて然るべきである。

努力でなんともならない状態の人は免除されている。 

全ての人命に『法の下の平等』を保証するために。

しかしその努力でなんともならない当事者であることを、

『療育者』が長らく認めちゃくれなかった。

うつ病患者に言っちゃならないこと

障害者に言っちゃならないこと

そもそも親として子にしてはならないこと

そういった被害を受けて洗脳されていたと

目を覚ましてからが地獄の第2ラウンド。

横スクロールアクションゲームで命からがらゴールしたと思ったら新しい面が始まって終われないやつみたいな。

ただでさえバグった頭がよりおかしくなりそうになりながらも

正気を保って、自分で自分を助ける必要があった。

狂わずに済んだのは、様々な赤の他人のおかげ様ではあるのだが、

ありとあらゆる支えを頼りに

耐え抜いている自分を、褒めてあげたい。

今でも、社会と適合しないことが実態としてしんどいのは変わらないけれども。

貧困と呼べるであろう状態からいつ脱せられるのかも分からないのだけれども。

嘆く必要はないし、責める必要はもっとない。

責任の無い立場で責任を捏造して負わない。

自分を幸せにできない人のことまで幸せにしてやる義理はない。

他者によって不幸にされる筋合いもないし、

自分で不幸にする理由はもっとない。

自分を傷つけた人のことを許せなくていい。

愛せなくていいし、憎めなくてもいい。

変われないって苦しむ必要も、ない。

自分の理想と他人の理想とを混同しない。

変わりたいのは、自分のためだけでもいい。

そう、心から思えるようになったから。

ありふれた人生は、もう探さない。

探さないよ。

@motcham
趣味人(しゅみんちゅ) lit.link/motcham  誤字脱字あったら教えてください