初詣に行ってきた。昨日のうちに済ませようと思っていたのだが、あまりの混雑と寒さに耐え兼ね、今日出直すことにしたのだった。
毎年初詣はするものの、何に向かって二拝二拍手一拝をしているのか、本当のところではよくわかっていない。それでもなお、手を合わせながら自分と身の回りの人間の健康を願ってしまう、どうしようもない自分がいる。
「初詣しないとなんとなく気持ち悪い」という理由だけで参拝しているが、これは宗教なのだろうか。
社殿の前で対する「実態のわからない何か」よりも、ふと目に入った木漏れ日の方が、純粋な畏れや敬いの心を呼び起こすような気がする。それと同時に、木漏れ日に対してご利益を期待したことはない。鳥居、参道、社殿といった「神社」という装置が、私の中にある「あやかりたい」という欲を吐き出させる。
社務所の掲示を見て知ったが、私は今年厄年らしい。「知らなければそんなことを意識もせずに一年を過ごせたのに」と少し恨みがましく思ってしまう。「悪い予感」に呑み込まれないように、いつも心に希望の灯火を宿していたい。
新年から立て続けに悲惨なニュースを目にして、気が滅入っているような気がする。明日は何か好きなものを作って食べよう。