ボイコットと推し活

芥 知之介
·

早速だけど、誤解のないように書いておこう。

読まれるためのブログではないにしても、自分用でも補足は大切だ。

ボイコットは、「嫌い」だからするもの、ではない。

好き嫌いとボイコットを一緒くたに語るのは、ややこしいかもしれない。

まあ、それはそれで、共通点と大きく違うところを考えると、理解が深まる氣もする。

ボイコットや「応援消費」などが、「好き嫌い」と違うのは、「動機」があること、だと思う。

ボイコットは、「意見表明だ」ということ。

意見表明とは言いつつ、ぼくはボイコットに関しては、あまり「表明」していない。

「しずかな抗議行動」とでも言えばいいのか。

ボイコットはやはり、どうしてもネガティブに捉えられがちだ。

だから、ボイコットも「嫌い」も、あまり人には話さない。

一方で、応援消費や推しは、表明しやすいと思う。

読んでよかった本や、行きつけのカフェなどをSNSで紹介する。

それは、やっかみ的なものはあったとしても、基本受け入れてもらいやすい意見表明だと思う。

例えば、最高裁判所裁判官の国民審査は、罷免すべきという人に×をつけなくてはならない。

これは、意思表示がとてもしにくい。

後ろめたさがあるし、⚪︎をつけるよりもいい加減にできなさそうだし。

実際、罷免されたケースはこれまで一度もなかったはずだ。

「わからなかったら、無記入で出していいですよ」と、係の人から声をかけられる、とも聞く。

ボイコットって「攻撃的」だ、と捉えられているのかもしれない。

それに、自分が好きなものを「否定」されたとしたら、あまりいい氣はしない。

じゃあ、何のためにボイコットをするのか。

社会的な意見表明であることはもちろん、表明する前に確認が必要だ。

自分の中での「基準」を満たしているか、「審査」が必要。

結局、それに慣れていないと、疲れてしまう。

流されるという、「ラク」な方法を選びがちなのは、わからないでもない。

この国では、長らく「周りの空気」を読むことを「推奨」されてきた。

ボイコットも、それが多数派になると一氣にハードルが下がる。

それって、主体性はどこにあるのだろう。

マイボイコットは、主体性を取り戻すためのトレーニング、と考えてみる。

今、前回のを見返したら、やはり「主体的に選ぶための鍛錬」と書いていた。

他の人がどう言おうと、あまり関係ないのだ。

推し活に関しては、結構みんな自然とそうしているはずだ。

ボイコットも、そう考えれば難しいことじゃない。

 ◇ AKUTA Tomonosuke ◇

  ◇

@mrukuleleman
吟遊ソングライター