神さまに愛される、とは

芥 知之介
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京都に行きたかった理由のひとつが、リトル・リチャードの特別冊子を買うこと、だった。

残念なことに、遅かったようでもう売っていなかった。

3月1日から劇場公開、その前にオンライン試写会に当たって、観ることができた。

これがとてもよかったのだ。

『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』という映画。

リトルリチャードについて、これまであまり知らなかった、正直知ろうとも思っていなかった。

ロックンロールの創設者のひとり、とはぼんやり認識していた。

それは誇張などではなくて、本当に彼こそがロックンロールの“キング”だった。

黒人でクィアであることへの、差別と偏見。

そして、ロックンロールの「オリジネイター」であったこと。

クィアもロックンロールも、リトル・リチャードは何度も「否定」する。

クリスチャンとしてはそれを認めることができない、大きな葛藤があった。

けれど、ロックンロールを「引退」して、神学を学びゴスペルを歌う姿は、苦しそうに感じられた。

「優等生」であろうとするリトル・リチャードは、別人のようで、ぼくは見ていて悲しくなった。

予告にも出てくる、映画の冒頭でのリトル・リチャードの言葉。

「神からもらったものは全部さらけ出さないと」

派手なパフォーマンスで歌い、すべてをさらけ出す姿は、輝いていてとにかく格好よかった。

それはすべて、神さまからの「ギフト」だったんじゃないか。

ぼくにはそう見えた。

リトル・リチャードは、多くの人にとって「なりたい自分になれるきっかけを与えてくれる」解放者だった。

それなのに、本人は挫折と苦悩の連続だった。

(それだけに、アメリカン・ミュージック・アウォードの功労賞を贈られるシーンは泣けた)

「異端」であることや、「ロックンロール=罪深い悪魔の音楽」とされたこと、世間の「ジャッジ」なんて壊してしまえばいい。

リトル・リチャードは、ロックンロールによってそれまでのルールを壊した。

それは、神さまの意向に反するものなのか?

ぼくは、そうは思わない。

きっと、リトル・リチャードも、ロックンロールも、神さまはとりわけ愛していたはずだ、と思う。

いずれにしても、この映画がつくられたことで、リトル・リチャードが再評価されることは何と喜ばしいことだろう。

今からでも、もっともっと称えられるべきだ。

 ◇ AKUTA Tomonosuke ◇

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@mrukuleleman
吟遊ソングライター