イオンシネマと車椅子ユーザーの件について。両者の言い分は当事者のものとして、外野の声を見ていると最終的な世界を共有できているのか不思議になる。実現の話ではなく、理想の話。たぶん、施設側も利用者側も相手を思いやり、車椅子だったとしてふらっと映画を気兼ねなく見に行ってなんの問題も起きない状態にあればいいと思うのだけど。それが現実的でないのなら、どこで折り合いをつけるか。
発信者憎しになっていないか。障がい者というだけで無条件に被害者としてないか。それぞれの過去の体験と今回の件を混同してないか。
意見はあっていいけれど、目指すべきところがそれなりにみんな幸せになってほしいと思えないのなら、それは悪意になってしまうのではないか。そんなことを考えた。
思い立って映画を見ること。出来ない人は障がいに関係なくいる。田舎に住んでいたり、貧困だったり、極論仕事だってあるわけだし。結局は不便にある当事者が働きかけるか受け入れるかであり、自分の我慢を他者に強いるのは別の話なのでは?など。
ひとまず私が明日車椅子ユーザーになったとしたら、できたら映画を見に行くハードルくらいあまり高くないといいなと思う。