注意
※この作者が書いている時点で全てを諦めてください。
都合の良い設定を盛り込んでおります。「これはどうなっているのか」などというお話は「どうにかなっているのだ」と片付けておいてくだされば幸いです。
登場人物
柊皐月(ひいらぎ・さつき)……小説家、女性。最近になって拉致及び軟禁を体験した。逃亡は叶っていない。考えもしていない。
月居朔(つきおり・さく)……皐月をこの家に閉じ込めている男性。最初から良心が痛みまくっている。圧力に逆らえない。
── 一 ──
この不快な感覚が名前をくれと叫ぶのならば、罪悪感と決めていた。
皐月は澪ではない。澪はとっくに空へ落ちてしまったのだから、彼女である筈がないのだ。
間違っている。皐月は皐月であり、澪ではないと認めるのが当然だ。
腹の内で先程名を与えた蛇がからだを長く伸ばし、首を擡げ、そこでにたりと笑んだ。
── 二 ──
エアコンの稼働音が、微かに空気を震わせている。ペンを紙面に走らせる音。窓を雨粒が叩いている。夕立が終わりゆく今日に縋るように続いていた。
ふと思い立ち、スーツの男性――阿座上と名乗ったひと――から、昼間受け取った鞄を引き寄せて中身を探る。若旦那様からです、とクラシック音楽のCDをかなりの枚数、それと新品のCDプレイヤーを貰い受けたのだ。若旦那様とは誰なのだろう。また知らぬ人が増えてしまった。
かしゃ、とCDプレイヤーの蓋を開く。皐月の年代では触れてきたひとが少ない、なんて事もあるかもしれない。皐月は偏りがありつつも、音楽を好ましく思っている。プレイヤーの使い方は、父から教えてもらった事があり、心得ていた。
CDをはめて、蓋を閉じて、電源をつける。まもなく流れてきたのは、リストの献呈だった。
華やかな旋律。白い花が舞うような。青薄く高い空に、瑞々しい白い花弁が吹き上がっていく。
滲んだ視界が、僅か明瞭になる。頬に零れ伝った滴の存在を自覚したら、もう止まらなかった。
── 三 ──
人との関わりが極端に減少している。誰かに連絡をすることがない。今までよりも緑豊かな場所に越したから、頻繁に会うことができないのだと言ってある。それと並行して憂鬱な気分に陥る事も減り、特に式野ナユリの原稿云々の話で精神的な疲労も、困窮もしない。胸がすく思いだった。作家というのは、本当にペンを執るしかできない職業だ。しみじみと思いに耽る。
仕事が嫌なわけではないのに気が滅入るのは、己の対人関係を巡る糸に問題があったのではないか。今更気付いても遅いだろうか。
否。何も遅くはないと思い込みたかった。ベッドから起き上がって、厚いカーテンを引いた先は、からりと晴れた気持ちの良い天候だった。庭に白い花が咲いている。あの花の名前は何と言うのだろう。
寝間着から着替えて、二階の洗面台で顔を洗う。化粧品の類も、何故か初日から用意されていた見慣れたメーカーのものを使用する。生活する事に対して、皐月は何事も疑問に思わなくなってきていた。
身支度を整えたら階段を下り、一階へ向かう。壁に掛けてある月めくりのカレンダーを見遣る。八月。今年の立秋は七日らしい。
「おはようございます、月居さん」
「おはよう」
このひとに頼る事を覚えてしまった。それは甘えでもあるだろう。
ついこの前まで、知らない人だったのに。
「……うそ」
月居は、皐月を知っていると話した。では皐月はどうか。
記憶を辿る。静かなひと。彼の瞳を、指先を。何処かで見たのではないか。彼の仕事が丁寧だと、皐月は遠く眺めた事があった。
それは、何処で。
「あ!」
唐突に皐月が上げた声に、月居の肩が震えた。驚いたのだろう。ふたりは基本的に物静かである。声を荒げる事は無いと言っても良かった。
なのに。
「司書さん」
「はい」
司書さんと呼ばれた月居は、ぴしりと居住まいを正して返事をした。普段の返答とは異なる、まるで仕事に接している人間のような。
皐月はその理由を記憶に尋ねる。彼は、駅に程近い大きな図書館の、司書のひとりではなかったか。
ぱた、と月居に皐月が歩み寄る。
「司書さんですよね、駅の近くの図書館の。あなたを見掛けたことがあって。わたし」
あなたの対応を好ましく思っていたんですよ。
一息に喋り、皐月がひたりと止まる。そうして深く息を吸い込んで、俯いた。
自分の話をしすぎた。これは恥ずかしい事だ。母がこの場に居たなら――いるわけもないのだが、はしたないからやめなさいと言われていた筈だ。
口を噤んだ皐月を、月居が不思議そうに見遣る。先程まで楽しそうに話していたのに、何故急に閉ざしてしまうのか。そう言わんばかりの視線を受けて、皐月は口籠った。
「あの場所に、また行きたくて」
「……すまない。私には、何も」
同じことを言わせてしまった。
だから、人と関わるのは怖いのだ。
―― 四 ――
「澪さんなら、もっと上手くやっているのに」
母の声。やっとの思いで繋いでいた呼吸が、刹那、止まった。
そんな夢を見た。
―― 五 ――
夜の食事は、十九時を少し回ることが多かった。
「いただきます」
手を合わせて、箸をとる。まずは味噌汁を一口。最初に感じたのは、満足感を十分に得られる旨味。綺麗な風味だ。
皐月はあまり洋食を作らない。母から教えられる料理は、いつも和食ばかりだった。その影響は大きい。中華にも怖気づいてしまい、レパートリーは少ないままだった。
洋食も中華も、嫌いではない。ただ和の方が好きだった。料理を教えてくれた母には、その点だけは感謝している。何せ献立に迷う事があまりないのだ。その知識を、どう己の好みに仕立て上げるか。それが皐月の毎日の課題であった。だが自分の為の消費というのは味気ないものだ。
この料理と、自分の作っていたそれは、一体何が違うのだろう。何の手順を踏めば、こんなにも色鮮やかに映ることが出来るのだろう。
そう思う時は、大抵出汁の取り方などが違うと聞く。このひとは、何をどうしているのか。
「食べにくいだろうか」
「え。いえ、違うんです。とても美味しくて」
わたしが作るものと、何が違うのか気になって。
続けたら、とても恥ずかしい言葉のような気がした。比較は卑下にも変化する性質を持つ。皐月はそれを好まない。
思考を巡らせていたその間に、箸が止まっていたらしい。月居はそれを気にしたのだろう。
最近は、彼と共に食事を摂る。生活の歯車がよく噛み合うのだ。
「それなら、よかった」
彼の言葉はひとつひとつが短い。あまり話すのが得意ではないのかもしれない。だが皐月も、懐いた人間以外には話を碌にしない。口先の対人能力は頗る低いのだ。社会に出るのも一苦労である。出来ない事が多すぎる故に、作家という道に逃げた。長続きした。続けていたら、見知らぬ手に拾われた。
月居は、皐月が作家である事を知らない。知らない筈だ。
皐月が、彼の料理が美味である理由を知らないように。
「月居さんは、何方からか、料理を習ったのですか?」
話す義理も無かろうに。疑問が我慢出来ぬと、口をついてまろび出た。一度声に出してしまえば、それをなかったことにはできない。
「父方の曽祖父からだ。何でも、こういったことを生業にしていたらしい」
私が習い始めた頃は、もう廃業していたようだが。月居はそう呟いて、味噌汁を一口静かに啜る。
彼の言う曽祖父の腕は、廃しても衰えなかった。身に染みついていたのだろう。そうして曾孫がその味を受け継いだのだ。
誰が誰を教育しても、何らおかしくはない。必ずしも両親が、子にそのような教育しなければならぬという決まりはない筈だ。
だが、変わっているとは、言われたかもしれない。
皐月の母――ゆかりの立ち振る舞いや、厳しい教え。堅牢な城の如き揺るがぬ教育は、皐月の息を浅く小さくさせた。
「君のご両親は、厳しい人だったのか」
「母は……そうですね。父は寛容なのですけど」
何度、父親――透の言葉に救われてきただろう。頭の堅い妻を宥める父は、穏やかな声をしていた。怒鳴った記憶さえない。皐月を叱る時、父はいつも優しく諭してくれた。
しかし母はそうでなかった。母は、皐月に何か、別の人物を見ていたように思う。
これが違う。あれが駄目だ。そうではない。こうしなくては。
皐月なりに必死に母の教えにしがみついていた。無駄なことではないと感じたからだ。
――あの子は駄目ね。澪さんなら、もっと上手くやっているのに。
高校生だった、ある夏の夜。遠く母の背後で聞いた名前。
その時、母はひとりだった。彼女は部屋でひとり、独り言を零しただけだった。
堪らず、皐月は母に背を向けて自室へと逃げた。高校の進路相談には、多忙の隙間を縫い、父が来てくれていた。だから母は皐月の得意な事など何も知らなかった。
――皐月は何がしたい?
――作家になりたい。小説を書きたい。書き続けたい。
――家から出たいなら、そうしなさい。でも、たまに帰ってきてくれたら、父さんは嬉しいな。
金銭の支援などをしてくれたのは父だった。程なくして式野ナユリは本格的に始動、活動し始め、その界隈の賞などを総嘗めにした。
それなのに顔も性別も、何一つ世間に割れていない。皐月は己の情報が欠片でも露呈することを、極端に嫌がった。
父には何も報せていない。仕送りはもうしなくても大丈夫だと断って。それきりだ。帰省をすることもなく、父への連絡を怠って。
「やりたいことがあって上京して。偶々上手くいって、偶々それで稼げて。だから、帰りたくはないんです。父には会いたいけれど」
親不孝者と謗られるだろうか。月居の両親がどうかは分からないが、血縁者同士で仲良くするのは、どうにも世間の規則であるように思う。
それから転がり出ては、異端なのだ。
ちら、と月居の顔色を窺う。
彼の目は鋭い。しかし皐月に向ける鋭利な感情はないように見えた。
例えば傷付けてやろう、だとか。
そういった気持ちの悪いことを、彼は皐月に決してしない。
「君の父親は、良い人なのだろうな」
根っからの善人なのだろう。
月居はそう続けた。まるで父を知っているような。落ち着いた、柔らかい声だった。
もしや知っているのだろうか。知っていて、皐月を此処に閉じ込めているのだろうか。
まさか。そんな筈はないだろう。
薄暗い雲がかかった夜色の不安を抱いたまま、皐月はその日の食事を終えた。
―― 六 ――
最後に編集者と話してから、半月の休みは終わってしまったような気がして仕方ない。もう秋ではないだろうか。否、まだ夏だ。
今の皐月の傍には、時計と暦がある。リビングにて、月居とふたりで確認するための月間カレンダーは壁掛けで、上品な花束の写真が上部にくっついていた。大旦那様の趣味らしい。
秋の産む化物が、また緩やかに近付いていると聞いた。地震も多ければ台風が訪れる回数も多い。こんな島国に好んで住まうなど、どうかしているのかもしれない。
地域に拠るのか。此処は、雨が多いように思う。
天井の更に上、窓の外では空が不服そうに呻いている。雷だ。今は機嫌が悪い、構ってくれるなと言わんばかりの轟きである。
皐月は昔から、雷鳴を聞き流せない性質であった。何時眩く閃くかも知れないのに、加えて大きな音が聞こえるのだ。酷い話である。光と音が苦手な生き物に、自然は優しくない。
早く帰ってきてくれないだろうか。
独りが心細い。本来ならば友人に何かしらのメッセージなどを送っているところだ。だが今の皐月に頼れる人物は、ひとりしか居ない。この現状を楽しんでいる人ではない、共に巻き込まれたひと。
玄関の開錠を待ち焦がれている自分が居る。それが響いた時、ぱっと顔を上げる自分が居る。
認めなければならない。
彼を、こころに迎え入れようとしていることを。
―― 七 ――
入ってはならない部屋がある。
そう皐月に言い渡した時、彼女は素直に頷いた。此処には居ない誰かの許可が下りるまで、互いに決して立ち入らないという言葉を交わした。皐月はそれを律義に守っているようだった。月居も、その部屋に何があるかは聞かされていない。鍵は月居にと宛がわれた部屋に置いてある。だが、開錠してまで入ろうは思わなかった。
朝香翁――大旦那様と呼ばれている男の考えは、月居には解らない。腹の内が読めない爺だ。そういう認識はある。
翁は翁の基準に則り、雅なものを大いに好む。そして、それを手中に収める為起こすのは外道の手段だった。正当な手続きは踏まず、己の手は汚さない。いつも他人任せだ。金で人間が動くと思っている。
そんな生物に、月居は奥底にしまっていた大事な言葉を知られてしまった。勝手に動き出した薄汚い富者は、これが欲しかったのだろうと、月居が本当は守りたかったものを投げて寄越してきた。
違うと言いたかった。澪の子供を守れるならば、それほど嬉しい事は無い。その筈だったのに。
──《 四 》──
けい‐てい【径庭/逕庭】
「径」「逕」は小道、「庭」は広場の意。
二つのものの間にある隔たり。