夜を食む/五話目

みつぎ
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公開:2026/4/26

注意

※この作者が書いている時点で全てを諦めてください。

都合の良い設定を盛り込んでおります。「これはどうなっているのか」などというお話は「どうにかなっているのだ」と片付けておいてくだされば幸いです。

登場人物

柊皐月(ひいらぎ・さつき)……小説家、女性。最近になって拉致及び軟禁を体験した。逃亡は叶っていない。考えもしていない。

月居朔(つきおり・さく)……皐月をこの家に閉じ込めている男性。最初から良心が痛みまくっている。圧力に逆らえない。


―― 一 ――

 夏を呼ぶ雨だった。田園が喜ぶ、静かな雨。

 皐月は夢の中の故郷で、制服のスカートを翻して笑む彼女を見た。その綺麗な笑顔を、どうしても思い出せない。

 あの手が皐月の頬に伸びた事も、柔らかく頬を撫でられた事も。そんな距離は憶えているのに。

「皐月」

 ひとつ。名前を呼ばれた。

「此処に来てはだめよ」

 空はただ静かに雨粒を零している。

 彼女の名前を。顔を。皐月は未だ、思い出せないでいる。

――二――

 ほぼ毎朝と言っても過言ではない。スーツを着た男性が、皐月を迎えた家にやってくる。シルバーのデミオに乗り込んだ二人組だ。月居と二言三言交わし、皐月の姿を窓越しに確認して元来た道を帰ってゆく。雪は未だ降らないが、その時季にはどうするのだろう。

 しかし雨が降ろうが槍が降ろうが、彼等は職務を全うするのだろう。それが彼等の仕事だからだ。

 玄関をまた施錠し、リビングに戻ってきた月居に、皐月はそれとなく話題を向けてみた。

「私にもどうにも出来ない。彼等は君が何事もなく生きている事を、大旦那様に報告する義務があるようだ」

 雨粒が忙しなく、子守唄をねだるようにちいさく窓を叩いていた。

 やはり、月居は肝心要の部分には触れてくれない。

 大旦那様とは一体誰なのか。何の目的でこんなことをしているのか。

 何も分からないまま。もう数週間――確実に一ヶ月は過ぎた――は此処で過ごしている。

「あの人達は、大旦那様の指示に背けないらしい。斯く言う私もそうだ」

「月居さんも?」

「そう。だから、君をこうして閉じ込めている」

 私を危険な人物だと思っていた方が良い。

 呟くように声を落とした月居は、そうして黙ってしまった。これは皐月に対する警告であったのだろう。

 皐月が道を逸脱しないように。世間一般から、もうはみ出ないように。

 その世間様に、何事も察せないようにと画策している存在に、歯向かえないままで。

 ―― 三 ――

 すれ違った事がある。視線を交えた事もある。

 ただそれだけの、赤の他人だった。

 そんな当たり前を受け入れて。

 こころを焦がして。

 ひとり抱えているだけ。

 それで良いと思っていた。

 

―― 四 ――

 夜半を過ぎても、月居が帰ってこない。開錠の音が聞こえない。何か、あったのだろうか。

 風呂と食事を済ませた皐月は、リビングで月居の帰りを待っていた。薄っすらとした睡魔は変わらず嘲笑ってくる。だが落ち着いて寝付けはしなかった。一度ベッドに潜り込んではみたものの、目は冴えるばかりである。そこで初めて、先程まで戯れていた睡魔と決別をしたことを自覚した。

 眠ることを諦めて、再びリビングへ向かう為に階段を下りる。どうやって過ごそうか。そう考えてドアを開いた時だった。

 何時の間に帰っていたのだろうか。月居が、隙のひとつも見せないひとが、瞼を閉じて座っていた。疲れている様子が垣間見える。

 僅かに鼻腔を擽る香りがあった。皐月の苦手なもの、アルコールの香り。皐月は服薬中の身ゆえ、飲酒をすることはなかった。加えて一滴も飲めない下戸であるため、嗜むことさえもろくにできない。

 開いたドアから流れる風を感じたのか、月居が瞼を上げる。皐月の肩が僅かに跳ねた。

「……起こしてしまったか。すまない」

「いいえ、起きていました。おかえりなさい」

 何時もの視線の鋭さが、今夜は疲労で蜂蜜のように溶けていた。ただいま、と未だに慣れない言葉を口にした月居は、行き場がなさそうに目を泳がせた。皐月だけが立っているのは妙だろう。そう月居は言いたいのだ。それに気付いて、皐月は彼の正面の椅子に腰掛ける事にした。

「あの」

 月居のぼんやりとした目線を捉えたい。そう思ってしまった。何処にも居ない気配のするひとを、傍に置いておきたくなるのは人間の性か。

 己のエゴが罷り通ったから、皐月が此処にいるのだと月居は答えた。それならば、月居は皐月を傍に置いておきたいと願ったことになる。

 その理由を、まだ聞いていなかった。答えが返ってくるかは、別として。

「この前の話をしてもいいだろうか」

「はい」

「君の言った通り、私は駅近くの図書館で働いている。君の姿を初めて見た時は、驚いた」

 彼女によく似ていたから。

 彼女という単語に皐月は首を傾げる。誰のことだろうか。もしや彼も、皐月の母のように、皐月に誰かを重ねているのだろうか。

 それは、嫌だった。酷く不愉快だった。彼がそうでないなら良いと、ずっと皐月は思っていたのだ。

「夢だと思ったんだ。都合のいい夢だと思った。なのに君は何度も現れるから、これが現実なのだと自覚せざるを得なかった」

 アルコールの香りを纏う彼は、やけに饒舌だった。

「本に囲まれて仕事をして、その合間に君の事を考えて。居ても立っても居られなくなって。若旦那様に、零してしまった」

「……何をですか」

「――……」

 僅かな沈黙が降り立つ。皐月は、俯いた月居を見つめる事しかできない。

 皐月には若旦那様の顔が分からない。声も知らない。だが彼は、朝香の縁者は月居に、ねばつくような笑みを見せただろう。もう少しだ、言ってしまえ。そう、月居を唆したのではないか。

「……君が、ほしい。柊皐月がほしい。澪の子を、傍に置いておきたい。私はあの時、確かにそう言った」

 

―― 五 ――

 

「君の母親は」

 月居の言葉がひたと止まる。躊躇っているような気配が感じられた。

「南松……柊ゆかりさんは、君の本当の母親ではない」

「え」

 では誰が己を産んだのか。何故そんな事が言えるのだろうか。貴方は何を知っているのか。

 そんな視線を、月居は受けていた。

「柊澪というひとが、君をこの世に産み落とした。だがそのひとは、もう二十年近く前に亡くなっている」

 みお。皐月の形の良い唇が、実母の名を紡ぐ。

 知らない言葉を、なぞるだけの行為。意味はないが、実感は得られるかもしれない。

「透は本当に、君に何も伝えていないのか」

「父は、何も。母には全く似ていないと、いつも周りから言われていて、わたし」

 そうだったんですね。

 一言呟くと、皐月は緩く頷いた。

 透というのは皐月の実父だ。皐月は父が月居の幼馴染でもあると、この時知った。

 「そう、だったんですね」

 繰り返す。噛み締める。受け入れて、頭脳へ浸透させる。諦観も、それと同時に皐月のからだに染み渡りつつあった。

 どれ程年数が経とうが、皐月がゆかりに似る事は無い。自然なことだ。血の繋がりが一切無いのだから。

 彼女――ゆかりは余程、好感を持てる親ではなかったらしい。月居が憶えている柊ゆかりと、最近知ったばかりの皐月の間に似ている点は見られない。

 寧ろ父親である透に似ている部分は、多々見受けられていた。彼は強く、そして脆い性質を持っている。急に月居を呼び、そうして嬉しそうに微笑んでくる。笑っていたかと思えば、夜には酷い記事を読んで涙をこぼしながら電話をしてきた時もあった。

 透と皐月は似ている。親子なのだ、当然である。脆弱なやさしさが、透明な無邪気さが。よく似ていた。

「皐月」

 びくん、と皐月の肩が震えた。怯えているのか、月居の言葉を飲み込み切れないのか。いずれにせよ、月居の言葉は事実である。

 柊透と西在家澪は結ばれ、その間に皐月を授かった。澪が亡くなった後、透はゆかりと再婚した。その家庭で育ったのが柊皐月である。それが全てだ。それ以上の情は、月居には何ひとつ要らない。

 人が死ぬより悲しいことが、世はに溢れ返っている筈なのに。

 燻る線香、啜り泣き。交わされる悲しみの挨拶。あの日、澪は空へ白く溶けていった。

 此処にいるのは澪ではない。彼女の娘だ。欲しいと一言、声を落としてしまった。歪んだ庇護欲は、月居の心を不粋に引っ掻き回して尚止まらない。

「俺は、君を」

 手のひらから零れた恋は、もう追えないのだ。慈しむ他に、月居は皐月への触れ方を知らなかった。

 

―― 六 ――

 雨粒の弾ける音が、子守唄のように聴こえてほしかった。

 結露も、篠突く雨も、そして泥濘も。全部憎むことはできなかった。どうしたってそれらは己の根底に横たわっていて。

 酷く雨の降る日には、よく眠れたから。

「月居さんの下の名前、教えて頂きたいと思っていて。お嫌でなければ、なんですけど」

 これまた急な話だ。

 時刻は二十一時を十五分ほど過ぎようとしているところだった。風呂を終え、寝巻にカーディガンを羽織った皐月が月居の元へやってきた。月居の座っている席と向かい合わせになり、月居の名前を教えてほしいと意気込んでいた。

 皐月は、月居と友人になりたいと思っていた。この関係が何処へ、どのように、どんな形で着地するかを知る術など、ふたりには無い。だがそれまで続く道ならば、どうか少しでも快いかたちで在りたいのだ。

「教えて頂けませんか?」

「……、どうして」

 皐月の言葉に、月居は僅かばかり混乱しているようだった。

「わたしだけ名前で呼ばれるのは、何とも面映ゆい心持ちになるので……」

 行き場のない両手を、薄い腹の前で組む。皐月が必死なのは、月居にもよく分かった。

 月居は知らぬ事だが皐月は昔から、口下手だった。だから書く道に進んだ。声だと、誤解を招いてしまうから。かたちに残らない、後戻りの出来ないそれ。本当に声というものを、自分が持っていて良いのかと、疑った時さえあった。

「……朔、という」

「さく?」

「ついたちだとか、新月の朔。……果物の、八朔の字だと言えば分かりやすいか」

 苗字を宙に書いて、続きに朔、と続ける。裏側からでも分かる。漢字を知っていて良かった瞬間だ。

 綺麗な名前だと、皐月は思った。だが言ってしまえば、そんなことはないと月居に言われてしまうだろう。口を噤む方が良い。そういった予感があった。

「あの……下のお名前で、呼んでも良いですか?」

「え」

 間抜けな声。彼にしては珍しい、気の抜けた声だった。

 新鮮な気持ちを抱いても、それを表情に決して出さぬよう。皐月はもう一度、月居に問うた。

「呼んでも良いですか?」

「あ……いや、うん。構わない」

 歯切れの悪い回答である。皐月にはまだ解らぬ葛藤があったのだろうか。それを訊ねるには、皐月はまだ月居とは他人でしかなかった。

「朔さん」

 せめて、友人になりたい響きが伝わるように。それは下心ではないかと話す蛇の頭を、心の金槌で潰した。

「……、……」

 後生大事にしたいものでもなかろうに。月居は唇を真一文字に引き結ぶ。

 噛み締めるように、この名を声にしないでほしかった。甘い色の湖に飲み込まれそうで。煙る感情を何と名付ければ良いのか、月居は憶えていない。

「ね、朔さん」

 何か他に、変わった事があるのか。異変の有無を問う視線に皐月は逡巡し、そうして月居の手をとった。僅かに月居の身体が硬直したが、気に留めず皐月は彼の手を握る。

 男性の自分とは異なる、柔らかな感触。拒絶こそしないものの、月居は確かに戸惑っていた。

 ふわりと小さな花が緩く綻ぶように、皐月は微笑んだ。

 月居に拒絶されなかった。それが嬉しかったのだ。

「……」

 言いたいことを最後まで言葉にしない。それを出来ないのが、月居の癖だった。彼は幼馴染の――柊透の血を継ぐこどもを前にして、酷く狼狽えてしまっていた。心臓が早鐘を打っている。

 初めて澪に笑顔を向けられた時の感情と、皐月の笑みを見た時の感情は、恐ろしく似ていた。

 こんな筈ではないのに。こんなつもりではなかったのに。十代の子供でもなかろうに、浮足立ってしまいそうで。

 初恋の人の娘が浮かべた微笑みを見て、月居は身体を動かせなくなっていた。

「返事をしてくださいね、今度から朔さんと呼びますから」

 苦しかった。

 自分の罪を許されている事が。

―― 七 ――

 正気ではないのかも、しれなかった。

 許されるわけがないのだ。こんな事をして。

 かつて好きだと思ったひとの子を、突然攫って。

 月居はただ、一言呟いたのみであった。だがそれは、愉悦を好む人を動かすには、十分過ぎる言葉だった。

──《 五 》──

 滂沱【ぼうだ】

 涙がとめどなく流れ落ちるさま。雨が降りしきるさま。