夜を食む/一話

みつぎ
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公開:2025/2/4

 都合の良い設定を盛り込んでおります。「これはどうなっているのか」などというお話は「どうにかなっているのだ」と片付けておいてくだされば幸いです。


 模範的な幸福でなければ、祝福するに値しない。

 何処かで跳ね返った青空が、彼女の白い肌にうっすら青い影を落としていた。薄汚れた窓の外は気分が悪くなる程晴れていて、遠く山の緑が少し白んでいた。ざわついた胸中の澱を取り除きたくて、皮膚を掻き毟ったところで何も起きやしない。俺が藻掻いたところで、奇跡だとかそんな安っぽい言葉で飾られる夢物語が、現実になるわけではなかった。

 面会謝絶を言い渡されたのは、五月四日だった。その前日、彼女は俺の知っている限りの「いつも通り」に振る舞っていた。その上っ面の笑顔が、僅かに罅割れていたのに気付いていながら、何も言及しなかった。

 ただ、彼女が微笑みながら「こわい」と言っていたのを憶えている。何時までも、ずっと憶えている。上手く眠れた夜には、そんな五月の記憶が繰り返し、薄れながら再生されていた。

── 一 ──

 知らない味の空気を吸っている。これは普段、いつもの部屋で食べているそれではない。その事実に、まだ開かない瞼の奥で、瞬間的に酷く動揺した。自分が住まう部屋に淡く満ちる紙の香りは、欠片も感じられない。薄っすらと鼻腔を擽るこれは、木の香り、というものだろうか。今では遠く離れてしまったが、両親と暮らしていた家では、類似する香りが身体を巡っていた気がする。自然がすぐ傍にある、そんな香りだ。雨催いで立ち昇る瑞々しさも、すぐに解るような。

 それに手招きされるように、ゆっくりと瞼を開く。やはり知らない色が、ぼんやりと見えてきた。恐らく天井だ。だが慣れ親しんだ色彩ではなく、木目調の、日本家屋で見られるそれに似ていた。胸中に、緩やかな違和感が拡がる。これは夢なのだろうか。それにしても、妙に色彩が鮮明だ。

 先程から何となく感じてはいたが、どうやら自分は横たわっているらしい。その場所は病院ではなく、自分の借りている部屋でもない。周囲が不明瞭である為のむず痒さを感じて、ゆっくりと身体を起こす。思えば無防備極まりない行動だ。だが、そうせずにはいられなかった。起き上がると、パステルカラーのタオルケットが自分の身体にかけられている事に気付く。可愛らしい色だ。肌触りも良い。

自分が身を横たえているものは、恐らくベッドだろう。視線が普段の寝起きとほぼ変わらないのだ。ベッドは自分好みの硬さで、枕の高さも文句はさしてない。欲を言えばもう少し低くても良かったとは思う。

 さて。意を決して周囲を見渡す心積もりをする。まだあまり視線を動かしていないゆえの恐怖は少々あるものの、好奇心の方が圧勝した。

 起こした身体の左側から、僅かに陽の色が見えた。言葉ばかりがあふれる意識のまま、ぎこちなく顔をそちらに向ける。落ち着いた色の壁――自分がそこへ立ったなら、丁度同じ身長になるくらいの高さに、小さい面積の障子に囲われるかたちで窓があった。半分は障子が引かれており、空の色が見えるが、もう半分はそのまま障子で隠されている。片方の窓から見える時間は、宵に差し掛かっていた。窓の上には真新しい色の白いエアコンが設置されており、小指の爪程もない小さい緑の運転ランプを点灯させていた。静かに稼働しているそれの風は程良い温度で、肌に直接当たらないようになっているようだ。通年冷え性である自分の手足が冷えていないのだから、これはきっとやさしさだ。誰の、何の為のやさしさかは、皆目見当もつかないが。

 壁も床も、暗い色だと言えばそれまでだが、自分にとっては目に優しい彩度が低いものばかりだ。ここは空調も効いているから、やはり部屋として機能している場所で間違いはない。建物としての外観などは不明だが。部屋の全体としては窓があり、遮光用の障子もある。先程は目に入ってこなかったが、天井には電灯も勿論備え付けられていた。エアコンと電灯を操作する為のリモコンは、まとめて枕の左側に置いてある。部屋の右側の隅には統一感のある色の机と椅子があり、部屋の中央には丸く小さなテーブルが上品に佇んでいる。その下にはくすんだ橙色のラグが敷いてあり、床も天井と同じく濃い焦げ茶の木目調のフローリングだった。

 いっそ感心するほど、身に覚えのない景色。この場所を自分は全く知らない。加えて此処に辿り着いた記憶も一切無い。手掛けた作品以外の記憶力は人並み程度だが、記憶を失うほど夕方から飲酒した覚えもなかった。身体に痛みは無く、暴行された形跡もないから、今のところ自分の身は恐らく安全であろう。窓の外、屋外から久しく聞いていない蝉の鳴き声が聞こえる。その声は特徴的で、生き物に造詣が深いとは言い難い自分でも、ひぐらしであると容易に判明した。あの声が聞こえるのは、確か、夕方からだった筈だ。

 夕方。そうだ。自分は、昼下がりから仕事の為に外出をしていたのではなかったか。素人が繭から糸を繰るような慎重さでゆっくりと、猛暑日の続いた炎天下の記憶を探る。とあるマンションの七階、角部屋。そこが式野ナユリの名で作家活動をしている柊皐月の、生活の拠点だった。

── 二 ──

 編集者と話をしたのは六月七日、午後の事だったと記憶している。料理で言うところのスパイスなるものを所々に加えながら、どうにか無事に原稿を書き上げた。それを渡した後、その足で皐月は図書館に向かったのだ。

 貯蓄に思っていたより随分と余裕が出来たから、別の作品を手掛けたくなった。それだけのことだ。しかし皐月にとっては十分原動力たりえるものだった。今回の執筆を終えたら、半月ほど所謂夏休みが欲しいと編集者に我儘を提言した。勇気は、少しだけ必要だったけれど。書きたかったのだ、誰にも指図を受けない自分だけの世界を。高校生の時分には、いくらでも降り立っていた世界を。無論、その自由作品を執筆している最中でも執筆依頼を貰えたなら、同時進行をして書くつもりでいた。すぐに出せる世界の数も多少減ってきていたから、書き留めるのにも丁度良い機会かもしれないと考えていたのだ。

 駅の近くにある図書館は、地元のそれとは比較にならない程広くて、上京したばかりの頃は凄まじい衝撃を受けた事を憶えている。とにかく広く明るく見やすく、探している本がどこの方面にあるのか、分かりやすい案内表示も各所に設けられていた。図書館内にエレベーターがあるというだけでも驚愕を禁じ得ない。なのにコンビニエンスストアやカフェも併設されているというのだから、最近のおしゃれというのは目を見張るものがある。

 地元の小さな図書館では決して感じる事の出来なかった都会の利便さ。実家とはまた異なる窮屈さがあると思っていたのに、それはきっと一面からしか見ていなかったからだと、皐月は己の浅慮さを反省したのだった。

 数多の書籍を抱えている本棚と長いテーブルは暖かさを感じる色合いで、それに合わせられた椅子も同じ配色だった。床はクリーム色で、壁も同じ。時折現れる柱だけが濃いセピア色をしており、全体的にこの館内は何処となく栗を想起させた。

── 三 ──

 地元では春になると、道端で強く生きていた黄色い花をよく見掛けていた。その花の力を、今になって皐月は必要としている。蒲公英の花言葉を何気ない気持ちで調べた時に、その気高さに感銘を受けた。勢いのまま、その時腰を落ち着けていた喫茶店で十数分かそこらで掌編を書き上げてしまった程だ。

 それと、コロッセオに似た建造なども調べておきたかった。あまり世界史には興味がないのだが、高校時代はそれでも頭に詰め込んでおけと友人達に説得されたのもあり、当時の高校卒業程度の知識ならあるつもりだ。だからと言って、それは天狗になる要素ではない。気を付けておかねばならない。無知はあまりにも恐ろしいものだから。

 二階で植物図鑑と睨めっこをして、建物外観や内部構造を細かに取り上げている書籍を眺め、ふと気付いた。館内から見る外の景色は薄暮の状態だった。鞄を探り、スマートフォンを持ち上げる。電源ボタンを一度押して表示された画面には、十八時に近い時間が映し出された。そんなに時間が経っていたのかと慌てて席を立つ。閉館時間が近い。

 椅子を元に戻して、本を手にして本棚へと足を運ぶ。各々の場所にしまい込むと、皐月は帰路へ就く為に正面玄関へと向かった。それ以外の何物でもない。そのまま自宅へと帰る筈だった。

── 四 ──

 七月の風は、湿気を含んでいる事も儘ある。頬を中途半端なちからで撫でていった風を受けて、皐月は空を見上げた。星はまだ見えない。薄い雲が緩やかに流れていた。地元の夜空を思うと、此処は随分とくすんだ空の色だと思う。綺麗だと思える星空を、もう何年も見ていない。人が思い思いにざわめくまちで、よく生きていられる。皐月自身、それを何度思っても飽きる事はなかった。本当に、よく呼吸を続けていられるものだ。

 作家というものは、ペンを執るしか出来なかった人間の総称である。美しい文をどれほど読もうが、皐月の根底に根付いているその持論に傷をつけられる言葉は、未だかつて何ひとつなかった。高校時代の友人ですら、その言葉には反論しなかったのだ。恐らくそれはやさしさだろう。皐月の言葉を、文章を、せかいの理を。全部を捻じ曲げない為に、彼等は黙す事を選んだのだと、今ではそう考える余裕がある。振り返る事が出来たからと謝罪をしても、彼等は構わないと微笑む。その当時の自分が如何に未熟かを思い知らされる。あまり思い出したくはないのに、それでもふとした瞬間、濁った湧き水のようにじわりと滲んでくるのだった。

── 五 ──

 夏に似つかわしくない、知らない甘い香りが鼻腔を擽って。それから。

「……」

 記憶がない。自分がそこからどうしていたのか。まるで憶えていない。まさか、記憶障害でも引き起こしたのだろうか。対人関係においてのそれには昔から自信が無いが、基礎能力としては至って普通の、人並みの記憶力はあるつもりだった。

 図書館を出て、知らない場所で目覚めた。その間に自力で移動した可能性を一切見出せない。何故知らないところにいるのか。何故こんなに整ったところで眠っていたのか。何故此処に居るのが皐月なのか。他の人間は居るのか。弾き出される疑問に答えてくれる者はいなかった。皐月は温まったベッドから恐る恐る出ることにした。立ち上がれば視線の変化から見えるものも出てくるのではないか。そう考えたのだ。

 しかし現実はそう甘いものではなく、窓から豊かな緑が見えただけだった。だが、それだけでも成果なのかもしれない。此処は、皐月が住んでいた場所とは大きく異なることが判明した。宵の袖に染められている森林の入口は、何故だか空気が澄んで見えた。

 ひとりの空間、エアコンの微かな稼働音、遠くさざめく深い紺色の枝葉。何が起きたかも分からないのに、ひとり見知らぬ部屋で息をしている事が、何だか奇妙に感じられた。

── 六 ──

 す、と襖を引く。古めかしい木製品特有の軋む音もなく、つるりと水羊羹の上を滑るように視界が開けた。襖の向こうに広がっていたのは、日本建築に上手く西洋の風を取り込んでいる景色だった。縁側があり、建具もある。それならば踏み石だってあるだろう。そう思わせるような、如何にもという日本の造りだ。そろそろ夜になってしまうが、廊下には足元に電燈がひとつあり、足元を円やかな光で広く照らしているため、外から滲む暗がりによる不安はあまりなかった。

 所々、雨に降られた後しとどに濡れた木が、深いところから寒いと訴えている時の匂いがする。そのしっとりとした空気が、廊下に淡く漂っていた。いつ、雨が降っただろうか。降ったとして、どうして屋内にそれがあるのだろうか。その場には新しく瑞々しい香りが満ちていて、皐月はその匂いに誘われるように足をそろりと踏み出した。

── 七 ──

 その部屋からは灯りが漏れていた。昼間であれば見過ごしてしまったかもしれないが、今は夜にも近い。もう既に夜だと呼んでも差支えはないだろう。目覚めた時よりも、辺りは随分と暗くなっている。知らない場所で、ひとりで、何故大した不安がないのか皐月には理由が解らない。ただ、今の状況はさして恐ろしいものではないと思っているのだ。可能性のひとつとして、殺人を犯そうとする人間がいるかもしれないのに。皐月の書くミステリー小説に、あからさまなそれは出演しない。そういった偏った世界をつくってきたのだ。厭世的で平和なせかい。生きるに不自由しかない、そんな場所。

 扉の向こう側に、なにかの気配がある。扉は如何にも日本ですと言うような模様が刻まれており、ドアノブは滑らかなデザインで金属製だった。

 右手中指の節で、扉を二回ほど叩いた。誰が居るとも分からないのにノックをするなんて、どうかしているのではないか。それでも、無言でその領域に入り込むのはいけない事だと思ったのだ。

── 八 ──

 どうぞ、と硬い声がした。ノックに対しての返答、及び侵入の許可。それを真に受けて、皐月はドアノブに手をかけ、扉をゆっくりと押し開ける。広々とした部屋。リビングだろうか。テーブルの上にはページを開いたままの文庫本に、栞が挟まっている。そこに、ひとりの男性が椅子に腰掛けていた。

「――……」

 空にある筈の月と、視線が交錯した。

 男性の視線は鋭い。びく、と皐月は己の身体が震えたの自覚した。その男性の眸の色に、皐月は呑まれたような錯覚さえあった。

 檸檬ほど明るくはないが、橙よりは日向の色。少しだけ翳っているような。濃紺に紫を加えた程度の皐月の瞳とは違う、綺麗な色だ。

「あなたは……?」

 己が喉は芯から凍りついたか。そう錯覚してしまう。口から花弁を吐くような違和感。凍った花弁を細かく砕いて漸く声を絞り出した時には、短い言葉しか零れ落ちなかった。

 男性は言い澱み、立ち上がった。皐月に比べたら随分と背の高いひとだ。男性という括りで見たら平均的であるかもしれない。皐月はその手の話に疎かった。

 男性が皐月の目の前、あと数歩というところで足を止める。見下ろされているが、皐月は不快感を感じなかった。身長が、視点が違うのだ。それは仕方のないことだろう。

「つきおり、という。月が居る、と書いて月居と読む」

 低く落ち着いた声で、自己紹介をされた。つきおりさん、と皐月は小さく呟く。声に時間があるならば、この月居というひとは、春の終わり、星の見えない深い夜だろう。このひとの名前が解った。後は何をするべきか。

「私は、君の事を知っている。君が私の事を知らなくても」

 初めて会った人から突然与えられた情報に、皐月は思わず閉口した。こういう時、大体の人間は、開いた口が塞がらないと表現するかもしれない。しかし皐月はそうではなく、昔から信じ難い出来事が起きた場合は、唇を真一文字に引き結ぶ癖があった。余計な言葉を零さないように。無為な衝突を避けたいが為に。

── 九 ──

 月居は皐月を知っていて、皐月は月居を知らない。月居曰く、この建物には今、自分達以外の人間は居ないという。男性と女性が、ひとつ屋根の下ふたりきり。皐月の中に存在する小説家が首を擡げた。非常に危ない。危ないのだが、この状況は実に面白いものではないか。しかし作家である皐月が幾ら好奇心を芽吹かせようと、それでも自分はひとりなのだ。自覚するべきである。

「あの……わたしはどうして、こんなところに」

 思考の片隅でうっそりと笑う式野ナユリを押し込めて、皐月は満月を目に宿した男に問う。すると彼は目を僅かに細めた。知らなくても構わない話だと、そう言わんばかりの視線。だが皐月は女性で、つい先程出会ったばかりの男性と、知らぬ土地で、見知らぬ部屋で隔離されているのはあまりにもおかしい話ではないだろうか。こんなところに居続ける理由も、彼と共に居る義理も、何も無い。

「君は今まで住んでいたところには、帰れないという話だった」

「は、……」

「これから先、君はここに住んでもらう。今までの、ある程度の日常を捨てて、この家で暮らすように。そのように、伝言を受けている」

 誰から、どうして、何故。視線で訴えれば、月居は緩く首を横に振った。知らないのか。或いは知っているが何も言えない。それか、何も言うつもりがない。どれであろうが皐月の知った事ではない。ただ、暴れたところで解決しない、そんな透明な圧力にどう抗えばいいのか分からなかった。

── 十 ──

 先入観が訴えている。これはいけない事だと。

 倫理観が叫んでいる。今すぐにでも逃げ出せと。

 無知なこどもが呟く。自分には何も出来ないと。

 反発する思考と感情。どうやって書く事を辞めろというのか。

 書く事でしか、自分を生かしてやれないくせに笑わせる。

 こんなところで、立ち止まっていられるわけがなかった。

 《 一 》

 かみ‐さま【神様】

 神を敬っていう語。

 信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの。

 人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。