腹が減る。犬が死んだのに。
動画を見る。SNSをやる。犬が死んだのに。
最愛の存在が消えたら毎日泣いて暮らし食事も受け付けずどん底に落ちなければならないわけではない。だがいざ自分がその立場に立つと、犬がいないのに以前と同じように生きている自分の姿が恥ずかしくて申し訳なくてどうしようもない。
外を散歩している犬とその飼い主が恨めしい。あの子は死んだ。
誰も悪くないのに自分も周囲も恨めしい。
これに折り合いをつけられる日が来るのだろうか。
君がいなくなってからも新しい出来事はワサワサと湧いてくる。
知らないだろう。今日気付いたんだが、私、ピーマン食べれるようになったんだ。
君はそれを永遠に知ることがない。
骨壷に向かって喋ったって届いているかどうかなんて知る由もない。
そりゃあ、生きてここにいた君に面と向かって喋ったって、その意味を理解なんてできないだろうが、少なくとも君の愛らしい耳に私が喋ったままの音がそのままの形で届き鼓膜を揺さぶることは確かにできるのだ。
君の腹の毛の触り心地をまだ手が覚えている。
これもいつか忘れてしまうのだろうか。
忘れたその日も、私は腹を空かせ飯を食い動画を見て笑っているのだろうか。