自由に外へ出られない日々が続くけれど、それが退屈だなどと思う暇もなく子どもが生まれてから瞬く間にふた月が経過してしまった。12月の半ばに出産をしてから、暗いお正月を超え、1月もいつの間にか終わってしまったことにとても驚いている。あまりに時間があっという間に過ぎていくので、曜日感覚どころか昼夜の感覚や気温の感覚さえどうでもよいものになってきた。
日々が忙しなく過ぎていく中で子どもが生まれるまでに感じていた妊娠中の不快さや陣痛、さまざまなからだと心の痛みも、喉元過ぎれば熱さを忘れるようにどんなに痛かったかは綺麗に忘れてしまった。ただ、出産当日の日のことは私にとって人生の中で一番過酷な日になったことは確かで、覚えている限り残しておきたいと思い、入院中に残していたメモと立会い出産のために連絡をこまめに取っていた夫とのやりとりが残っているため、それを頼りに出産の日を残していく。ものすごく暇な方は読んでみても良いかもしれません。
*誰かの役に立つ情報ではなく本当にただの記録です。生生しい描写があったらすみません、また医療的な知識も皆無なため間違った認識のものがあったらごめんなさい。
⁂12月某日 7:35頃
トイレにておしるしのような少量の出血あり。もう少しで赤ちゃんが生まれてくるのかな、と思っていたらそのあとすぐに生理2日目のような感じでドバっと水が出た感覚。血でもないが尿でもないので、ここで破水を疑う。
⁂7:55頃
かかりつけの病院に連絡。状況を説明したところ、今から病院に来てほしいとのことで急いで着替えて出発準備をする。元々入院するための支度はすべて事前に整えていたのでバタバタとしなくて済んだ。
⁂8:20頃
家を出る。入院になったら朝ごはんを食べ損ねてしまうので、何かおにぎりなど買ってきていいよと病院の方に言われたので悠長にコンビニに寄ってから向かう。この時点では少しおなかが張っているものの痛みはほとんど無かった。
⁂9:00頃
朝の通勤時間帯と被り病院までの道のりが混んでいた。着いてすぐに病棟に向かいそのまま破水をしたかどうかの検査へ。羊水だった場合、紙が青色に反応するらしく、その検査結果を待つ。
⁂10:00頃
検査の結果、前期破水ということになりそのまま入院が決まった。素早く病室に案内されこれから行う処置について説明がされる。前期破水(陣痛が来る前に羊水が漏れてしまうこと)になってしまうと感染症のリスクがあるそうで、分娩誘発・陣痛促進の処置を行い2日以内に子どもが生まれるようにしていかなければならないということだった。飲み薬を1時間に1回飲むという処置を16時までの計6回行い様子を見ていくことになった。
⁂14:50頃
薬を4回飲んだ時点で子宮口は1-2㎝程度開いてきた。まだ痛みには余裕があった。
⁂16:00
この日の投薬はこの時点で終了。次の日は朝6:00から投薬を再開し、9時からは点滴でも誘発させるという方針に。この時点ではまだ鈍痛があるくらいで痛みは軽いものだった。
⁂19:50頃
だいぶ腰回りが痛くなってきて、痛みの波も3-5分間隔程度になってきた。巡回してくれた助産師さんにそのことを伝えると、おなかにモニターを付けてくれたが、まだお産まで遠そうということで様子見を継続。寝れるうちに寝て体力を温存しておこうと思うが中々寝付けない。
⁂20:30頃
羊水がドバドバ出て心配になる。こんなに水が出てしまって子どもには影響がないのか分からず物凄く不安になる。痛みの波も酷くなってきたのでまったく寝付けない。21時には病院が消灯したが、広い病室で暗い中ひとり痛みに耐える。
⁂22:30頃
夫には朝に入院が決まった段階で連絡をしていたので、既に関西から埼玉に到着していた。わたしの実家で待機し、立会い出産に備えている。「寝れない」と連絡をしたり猫の写真を送ってもらったりして気を紛らわせる。
⁂12月つぎの日 1:00頃
いよいよ痛くて一睡も出来ないのでナースコールをしてモニターを確認してもらう。ここで完全に陣痛スタートのお知らせ。それまでに痛かったのは陣痛では無かったのか…?と疑問が湧く。これ以上痛くなるのか、とげんなりした。
3:30頃
夫からどんな感じ?と連絡が入る。1時からここまでの私はかなり満身創痍な状態だった。2回嘔吐をし、せっかく食べた夕食はすべて出してしまい、脱水を防ぐために点滴を開始した。おなかが痛いというよりかは腰骨などがぐりぐり磨り潰されていくような痛みが引いてはすぐにやってくるので、この時は早く終わってくれとしか考えていなかった。様子を見に来てくれた助産師さんが「パパ呼ぼうか」と言ってくれたので、夫に「今から来て」と連絡。ひとりで痛みに耐えているので誰か来てくれるのだけでも心強いと感じる。
4:00頃
夫到着。安心。夫は多分かなり動揺していた。その後また嘔吐を繰り返し、もう胃液しか出んという状態。何故こんなに吐き気があったのかはわからない。
6:00
前日に説明があった投薬の予定は無しになり、この時点で既に子宮口は8㎝ほどに。痛みで呻いていたけれど、徐々にいきんでしまいたい感じになってきて、羊水もドバドバ漏れてしまい心配になる。子どもがおなかの中で安全に過ごせるだけの水が足りなかったらどうしようと不安ばかり。
ここから先は時間の感覚もよく分からなくなるほど痛みが強くなる。その間も夫はずっと背中や腰を摩ったりマッサージしたりしてくれて、私の微妙な要求(どこそこを押してくれ!等)にも柔軟に嫌な顔一つせず対応してくれてこればかりは感謝しかない。ひとりでは気も紛れず孤独と痛みで辛かったので、出産に立ち会ってくれて本当に良かったと思う。
しばらくして今までいた陣痛室からいよいよ分娩室へと移動する。歩いていかねばならず、数歩歩くのもとても辛い。トイレ済ませておいてね、と助産師さんに言われていたので、トイレにも寄ったが何も出ず。
ここにきてラストスパートということで、投薬の予定は無しと言われていたがやっぱり点滴での促進剤を追加。投薬後30分様子を見ることになるも、既に分娩台の上に移動していたので上手にのたうちまわることが出来ずに怒りが込み上げていた。30分経ち、子宮口が全開になりいよいよ出てきそうという段になる。出口付近がまだ硬いため子どもが通るときに裂けてしまう可能性があることを告げられ、最悪肛門と裂傷が繋がる恐れがあるということで(いま思えば怖い話だ)、出来ればやりたくなかった会陰切開をすることに。結果的には切ってもらったおかげで肛門と繋がったり治りが遅くなるような傷にはならなかったので良かった(今もまだ切った傷には違和感があるので、予後も結構しんどい)。最後にまた薬を追加して更にお産が進むようにしてもらう。その薬を入れてもらってる間に子どもを取り出す準備も着々と進み、先生たちが整った段階でいよいよいきんで良いという指示が。たまたま当直で主治医の先生も夜通し診ていてくれたので、あれよあれよという間にみんなが想像する出産の体勢になり、そこから子どもがでてくるまでは本当にあっという間だった(陣痛に耐えている時間が長すぎる)。
助産師さんのタイミングに合わせて呼吸といきみを数回繰り返し、頭が出てくるのがわかった。頭が出たらこっちのものだと私も最後に気合が入る。出てくる瞬間に股を数か所ざくざくと切られるのも分かったが、出す痛みの方が私は遥かに痛かった。途中わたしがいきみ過ぎて低酸素状態になったのでマスクもされ、本当に満身創痍の状態だったのだが、頭が出ているからには「ここで力を緩めたら子どもが苦しくなる」と思い渾身の力を出すと、音が上がるようにスポンと全身が出てきて「出た!」と思った時には子どもが上手に泣いていた。朝方に無事に誕生してくれた。
長い戦いだった…放心したいのも束の間、助産師さんが気を遣って「お母さん一番に抱っこする?」と言ってくださったが、夫は感染症対策のため立ち会ったら残り2時間しか一緒にいることができないので最初の抱っこは夫にしてもらった。一緒にわからないなりに頑張ってくれていたので本当に感謝だ。夫が赤ちゃんを抱っこしてくれている間は、私は会陰切開した部分を縫われたり、胎盤を出したり、あとの処置を行っていた。胎盤が物凄く綺麗に出たので助産師さんが見せてくれたのが面白かった。あんなもんが体から出るんだからそりゃ痛いはずだわ、と縫われながら思う。切開した部分を縫われながら4か所も切ったことを知る。股の間から釣り針のような針で縫われているのが見えて「こわ」という感想が出た。その間にも頭上で処置されている子どもを見ながら夫がずっと子どもに話しかけている声が聞こえて、それには胸を撫で下ろした。
怒涛の出産が終わり、私の出産は初産婦にしてはかなり早く相当な安産だったと知る。助産師さんも先生も物凄く褒めてくれて私も子どもも安全にお産を終えられたことが誇らしい。
*…
このあと一週間の入院生活になるのだが、この入院生活も意外と忙しく体を労わりながら子どもと向き合うのが物凄く体力を要した。入院中にも色々と考えたことがあったのだが、今回は記録という体なのでまた別で書き起こせたらと思っている。
子どもが誕生してからもうすぐ二か月が経つ。分からないことだらけだがその分新鮮なことも多く、不安と発見が良い塩梅のバランスで巻き起こる毎日だ。大きな声で泣く我が子に右往左往することもあるが、私がなんとかやっていけているのは恵まれた環境があり何より運が良かったためと言える。自分の実力はまだまだだが、恐れながら進んでいる方がマシなんだと言い聞かせ手探りの子育てを続けている。きちんと子どもと向き合ているのかまだまだ自信はないけれど、子どもを見ても「こんなに痛い思いして産んでやったんだから」というような感情が微塵も浮かばない自分には安心する。
産むまでもひとつの戦いだったが、これからも長い戦いだ。両手で抱えられる範囲のものだけでも守れるように、強くありたいな自分。