2024.6.17

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公開:2024/6/17

昨晩結局1時半ごろに寝付くことができたが、4時半に目が覚めた。二度寝もできず、そのまま階下へ降りて、母とたくさん話した。たくさんたくさん、話した。怒りは自分自身に原因があること、過去の経験の蓄積で引き金が引かれやすくなっていて、「構え」た末の反応でしかないこと、しかし怒りを通して学ぶものがあること、そういうことをたくさん。

尹雄大の書いていたそのままのことを、母が経験と体感にもとづいて語っており、わあ、最近これ読んだなあ、と頭のなかで反芻していた。言っていることがまったく同じだった。

10時半くらいまでじっくり話して、二人で泣いたりした。互いの人生のなかでいろんなことがあり、いろんな気づきがあり、それを共有している。

中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』を出勤電車で3分の2、あとは仕事で読み終える。まさに今までの自分がやってきたことだった。書いてある心理のメカニズムに首肯する。

離婚原因や出火原因とはその「不当な事象」に対する責任追及という要求に見合って出現するものですが、「嫌い」の原因追及も同じ。私が「嫌い」という不快な感情を抱くこと(抱かされること)は不当なのです。私はそれをぬぐい去りたいのですが、どうしてもできない。なぜなら、それは私の意志が左右できるものではなく、原因が私の外からやってきて私の感情を「引き起こし」、そして私のうちに住み着いたものだからです。

つまり、「嫌い」の原因を私が探るとき、私はすでに自己正当化しようとしている。私はXに対して「嫌い」というかたちのドス黒い炎を燃やしている。これが、Xに対する不当な仕打ちではなく正当な仕打ちであることを自分でも確認したい。でなければ、私は不当なことをしていることになりますから。それは耐えがたい。私は「嫌い」という不快な感情をXに対して抱く正当な権利があることを探り出して、みずからを救いたいのです。これが、「嫌い」の原因を探究する心理状態です。

p.65

まさにこれだ。そして、まさにこの正当化の作業をやっているとき、まわりからの視線はもちろん冷ややかである。なぜならそれは「こじつけ」でしかないから(自分でも薄々分かっている)。

「嫌い」の原因は、それが反社会的なもの、解消されなければならないものと了解されていますから、みんな必死の思いで原因を追及する。原因を追及するとは、原因に罪=責任を押しつけることによって、自分がその力から解放されることです。

(中略)

「嫌い」とは不快な感情ですから、これを取り除きたいのですが、それができない場合でもせめて原因を探究して、それに罪を帰することによって、自分は不快感から解放されたい。こういう企みがあるのです。

ですから、「嫌い」の原因探究は往々にして客観的なものではなく、かなりの程度歪んだもの。私が私にとって都合のよいように仕組んだもの、私がさっぱりすることを目的として、私がある要因を無理にでも探り出してそれをXになすりつけたもの、であることが多い。そのことにより、私の文に対する「嫌い」という感情自体が薄まらなくとも、私の罪責感が薄まればいい。それが「正しい」原因なのです。

p.67

「嫌い」という不快な感情から逃れたいがために、嫌いになる正当な原因や理由があるということにしようとする。「嫌いになってしまった」という罪の意識を、相手に原因があるからだと正当化して、なるべく感じないようにする。そういうことが自分にも起こっていたなあ、と読みながら感じた。

「嫌い」は「好き」と同じように自然なものであって、だからこそ、それに向き合い、克服しようとするのが人間らしさであること。「ひとを嫌ってはいけない」と思い込まず、きちんと「嫌い」を味わい、嫌いなまま付き合っていくこと。嫌いに濃淡があったほうが、よほど豊かだということ。そういうことが書いてあったのも、よかった。そうか、さらっと嫌いになればいいし、嫌われることにもでんと構えていればいいのだ。自分が他人を嫌いになることも、他人が自分を嫌いになることも、どちらも正確に受け止めればよい。嫌いなままやっていくためのスキルを、これからの人生で鍛錬していく必要がある。

仕事で歩いて法務局へ、登記の申請に行ってきた。あっという間だった。山菜うどんを食べて仕事場に戻って来た。

眠い。はやく帰って、はやく寝る。

パートナーにも、今朝母と話したことや本で読んだことを言わないとなあ。

ところで、この半年、そしてとりわけこの2〜3週間のあいだに、インパクトのある決裂をした人たちには、「モラハラ・DV被害をパートナーから受けた」という共通点がある。そして先週末と今週末、DV加害者から着信と留守電があった(もちろん着拒しているが、SMS通知だけ来るし、留守電は残せるらしい)。なんとも、わたしの過去のDVの被害経験が浮かび上がってくる構図だ…… と、符合めいたものを感じてしまう。先日着信が3件、留守電が2件、夜中に入っていたとき、もう心底どうでもよくなっていることに気づき、自分でも驚いた。以前だったら、「またか、嫌だな……」と動揺していたのだ。それが、まったく何も思わなくなっていた。そのことと関係があるのかな、としばらく心のなかでころがしてみようかと思う。