夜中に「あー!」と叫んだ朧げな記憶。どんな夢を見ていたんだろう。夢のなかで怒っているときは、何かがそうとう溜まっていて、夢でしか発散できないのだと思う。わたしはもともとすごく怒りっぽい性格(性格なのかな?)で、大人になって人間関係の環境調整をすることでおさまってきたようなところがあるのだけど、怒りのパワーが無意識に抑圧されているのか、ストレスがかかると夢うつつのまま怒鳴ったり叫んだり唸ったりするようになる。原因を究明しないといけないよね……。自分の身体や精神のサインを無視しつづけている。
気分は悪くなかったがやる気が出ず仕事ができなかった。やるべきことがあったが手をつけられず、しかしいざやってみたら作成と送信までで9分しかかからなかった。「人生全部これ」の象徴?外に出て編み物して指がかじかんだり、部屋に戻って編み物をしたり、編み物で頭が重くなったので筋トレダンスをして身体をあたためたりした。会議があった。ふう。
今日は中高の同級生とシリア料理を食べに行った。それをきっかけにシリアで今何が起こっているか知ってくれたらしく、そんな友人の存在がありがたい。たくさん食べて飲み、いつまでも話していられるなあと名残惜しかった。

前提を共有しきっていない人たちとたまに話すと新鮮でおもしろいなあ。普段いかに阿吽でやっているかがわかる。パートナーシップの大きなポイント、夫婦別姓、月経、メンタルヘルス、キャリアと子育て…… などなど、12歳で出会ったわたしたちからは想像もつかなかったような話をしている。
毎回会うたびにびっくりするのだが、中高の同級生って、とてもひとがいい。話していると、なんだか自然と「この人のこういうところ、本当に素敵で好ましいなあ」と胸がほかほかするくらい。いろいろ考えてみて思ったけれど、それは「自分はこう思っている」という芯を見せてくれるからなのかもしれない、と思う。同じトピックであっても、それに対する関わり方や姿勢、考えは異なっていて、その差異をそのままに「わたしはこう」と場に出す、ということを全員が(やり方のムードは違えど)やれている。だからこそ、話していると気が引き締まるというか、「わたしのように考えない他者」の存在をいつでも考えに入れなくちゃ、としゃんと背筋が伸びる。他者の他者性が浮かび上がってくる。「わたしはそうは思わない」「わたしはそうではない」「わたしは違う考えを持っている」を表明できることって、本当に本当に、すばらしいことだと思うのだ。それは友人たちのうつくしいところに起因しつつ、三人が有機的に作り上げた場で起こっている。それがとっても、とってもうれしい。
友人たち、なぜあんなに素敵なんだろう。本当はいちいちその場で全部言語化して「あなたのここが素敵!」と伝えたい。こういう素朴な「ひとのよさ」に感激して生きていきたい。
帰ってきて、同居している友人の大変だった話を聞いた。アイデンティティが尊重されない経験がより多く降りかかってくるのが悔しい。もっとわたしも勉強したいし、(語られないこと、語れないことが多いことを理解した上で、それでもかろうじて語られた)語りを聞きたいと思う。ともにありたい。隣にいたい。同じほうを見たい。
「明日デートでしょ!」と先にシャワーを浴びさせてもらい、1時過ぎに就寝。