2024.6.19

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朝、母が「西瓜あるよ」と冷蔵庫から出してくれ、「台所で立って食べるのがいちばんうまい!」と言いながら二人で食べた。 今年初西瓜だ。甘くて冷たくてしゃりしゃりで、とても美味しかった。

身体がだるく、ふわふわとして、強い眠気に襲われていた。あまりにも眠いので、これはカフェインが必要だ、とアールグレイの缶ごと持って行くことにした。仕事場でがぶがぶ紅茶を淹れては飲み、淹れては飲みした。

午後、友人に電話したいと言うと、こころよく時間を作ってくれた。友人がなくした日傘を探しながら歩いているあいだ、いろんな話をした。自分のクィア性やアイデンティティと実践が「ずれている」と見なされるとき(ずれていなくとも、とりわけより特権的な利益を享受する実践形態になっている場合)、クィアの内部で抑圧や排除が起こる、という話にうんうん唸った。わたしはパンロマンティック/セクシュアルで、ポリアモラスでありポリアモリーという関係様式をやってみたいと思っているクィアだが、現在、友愛-恋愛-性愛を含むパートナーシップは、特定のシス男性一人のみと結んでいる。過去にシスヘテロ男性以外のジェンダーアイデンティティをもつ人と交際したことはない(身体違和のある人はいたが)し、ポリアモリーという関係様式の実践は、話し合いの末現時点では控えている。わたしたちが出生時に割り当てられたのはそれぞれ男性と女性であるので婚姻制度を利用できるが、戸籍制度自体に反対で制度の解体を望んでおり、また同性婚の法制化と選択的夫婦別姓の導入がいまだになされていないため、婚姻制度による特権を得て利益を享受することには忌避感があり、事実婚にしようかと話している。もちろん婚姻という社会的/文化的/法的制度の利益を得ることは生き延びるうえでは有用だが、それが家父長制を支え運用する抑圧システムとしてはたらくという面に問題を感じている。このように、「ただのシスヘテロ異性愛カップル」に見えるふたりぐみが、その実葛藤していたり、異なるアイデンティティを持っていたり、違うかたちを模索していたりすることは、透明化されてしまう。そのときいちばん悲しいのは、「"本物の"クィアでない」だとか、「異性愛交際経験のみのパンセクシュアルはパンセクシュアルとは言えない」みたいな、条件を付けて当てはまらないひとを作り出し、それを排除しようとすることばや、個人のアイデンティティを平気で踏み潰すことばが、同じコミュニティ内の人たちから向けられてしまうことだ(もちろん、これについてはインターセクショナリティの観点から克服されてきたし、アイデンティティと実践様式を違う位相で捉える考え方が主流になってきている)。わたしたちは、「同じ属性だから連帯できる」のではない。これはまったくはっきりしていることだ。わたしたちは、各々がさまざまに異なる状況に置かれ、それでもなお同じものから抑圧され差別されているという事実に抗するために、連帯している。それを忘れて内部で諍いをしても仕方ない。目を向けるべきはそこではない。わたしたちを損なうものの正体を見極めなくてはいけない。わたしたちは異なりから出発しなくてはならない。

その後もなんとか仕事をして帰宅。帰ってきて、合唱曲のソロに未練があったのでその曲だけ練習してみた。もう二度と歌うことはないのに。しかし歌うこと自体はやっぱり楽しい。わたしってかなりいい声をしている。

今日の眠気は熟睡できていないからかもしれないと思い、銭湯に行くことにする。動くの面倒だなあと思っていたら、なぜかアパート全体が断水しており、やっぱり銭湯に行かないと!と急いで向かった。今日はなんだか人が多かった。いつもよりも時間は短めにしたが、ぽかぽかになった。

夕飯を食べ、パートナーにボイスメッセージを残し、寝た。