折坂悠太のシングル『スペル』を朝起きていちばんに聴く。
最寄り駅まで向かいながらリピートして聴き、ぽろぽろ泣いてしまった。
なんてことを言うんだろう。折坂の音楽は、歌は祈りだ。祈りの呪文。
わたしの過去が、時々はっとするほど今ここにいるわたしをつくっている。逃れられないこともある。それでもわたしを愛おしいと思いたい。
26日のアルバム『呪文』のリリース、本当に楽しみだなあ。
今日は、アイボリーのパンツとTシャツ、グレーのリボンで結ぶどこかのアジアの国で姉妹が作ったバッグ(パートナーからの「就職祝い」)、靴下もFrench Bullのグレーのチェック。昨日に引き続き、kamiori kaoriのクロスのブレスレット、ビーズの指輪をつけた。29℃らしく、朝からむわっと気温も高いので、日傘も持ってきた。
昨日の夜、夜ごはんをいざ作ろうとしたところで違うタスクがカットインしたことで、ひさしぶりにいらいらした。最近は抑うつ気分が強かったためか、月経を止めているためか、「いらいら」という感情自体から遠ざかっていたので、かなり戸惑ったし、制御できない感じがちょっぴり怖かった。よくこれを毎月一週間くらいやってたな…… と思う。少しでもPMSやPMDDの症状があるひとは(少しでも、だよ!)、我慢せずに婦人科にかかってほしい。月経を止めること、こんなに婦人科を受診する自分でも踏ん切りがつかずかなり逡巡したけれど、毎月悩まされるくらいなら、いっそ止めてみるのもひとつの選択肢として持ってみてね。向いてなければ月経を再開したらいいだけだからね。あと最近は、よもぎ蒸しがよいという情報を手に入れ、月経止めてるけれどやってみたいなと思っている。
そのいらいらの延長に今朝があり、朝からそんなに気分がすぐれなかった。だから音楽を聴いて、歩きながら泣いてしまったんだろう。
妹や母やそのまわりの人たちは泊まり込みの介護の仕事をしているのだけど、週2のシフトで月収20万らしい。それを聞いて、毎日往復2時間半かけて仕事場に行ってやることもなく時間を潰すだけで、こんなに精神の調子を崩してしまっても、ずっとあそこに拘束されて20万もらっているわたしって、一体なんなんだろう……… になってしまい、しゅんと気持ちがしぼんでしまった。やりたいことがある人にとってそういう仕事があることを心の底からよろこばしく思うのだけど、一方で自分の情けなさみたいなものの輪郭が浮かび上がってしまった。わたしがその仕事をやったとして、やりたいことができるのかと言われたら、そうでない気がしてしまう。なぜなら、時間があったとて、やりたいことをやる気力を、今の仕事場に削がれ続けているから。最初は自由時間が多いことをありがたいと思っていたが、みるみるうちに適応障害になり、その自由時間に何をすることもできなくなってしまった。本が読めたらいいほう、仕事ができたらいいほう。やりたいことをやること、本当に難しくて、いつだって怖い。休みたい。
自分の人生が怖くなってしまって、本棚から何冊も本を引き抜いてベッドに持ってきた。不安になったとき、わたしがまっさきにすることは、本を集めてきてそばに置いておくことだ。
その中から一冊だけ仕事場に持ってきた。お昼休みに読んだら止まらなくなって8割読み、来客後にまた読み進めて、あっという間に読み終えた。中島義道『働くことがイヤな人のための本 仕事とは何だろうか』。中島義道は一冊大学時代に読んだきりで、それもで街中の掲示板やアナウンスがうるさすぎるみたいな内容だった(タイトルも思い出せない)のだが、無料塾の共用本棚に入っていたので手に取ってみた。わたしはずっと、「働きたくないでござる」なので……。書いてあることが「まさに!」の連続で、笑いながらどんどん読んだ。とてもとても、おもしろかった。
元気が出たのは、まずは何でもいいから仕事をする、という方向にからだを向けてくれること。それがなんであっても構わない。今の仕事をやっていて、「このままでいいのかな」ともやもやしているところだったので、そのもやもやをずっと抱え続けながら生きることこそが、「嘘がない」生き方なんだよ、と言ってくれるところに、ほっとした。疑問を抑えつけてさもあたりまえのように仕事をするのも、逆に自身の適応できなさに居直り、逆に適応している人々を見下す(ルサンチマンだね)のも、どちらも嘘だ。「問い」をからだの中に持ち続けることが、かけがえのないことだ、と中島は言う。たしかに、「こうだ」と決めることで問いが消えてしまうのは、もったいないことのように感じられる。問いがわたしを動かす。からだでそれを問う。問いのなかに生きる。そういうことなのかも。
さっきまで、自分がここにいることが怖かった。やりたいことをやれていないとか、何しているんだろうとか、そういうことがぐるぐるして、でもどうしたらいいか分からなくて。「なぜ?」と思ってしまう。納得できない。自分を騙し続けられるほど器用でもない。しかし、丹念にこの世界を見つめ、問いをからだに持ち続けることが、「よく生きる」ことにつながっていくのだ。わたしは、「よく生きる」をやりたいのだな、とあらためて思った。自分は大した人間ではない、ないのだけど、それでもよく生きたい。よく生きたいよ。今ここにいることを、そのまま受け入れられるような気がする本だった。
わたしが昨日の日記に書いた、人々が街中にいて、それぞれの人生をやっていて、それがとてもうれしいということも、この話と通じているのかもしれない、とほのかに感じた。わたしは「よく生きる」をやっているひとを見たから、あんなにうれしかったのだ。ほとんどの人がやっている仕事は、社会的評価が高いわけでも、価値があるとされる業績に数えられるものでもないかもしれない。それでも、「よく生きる」をやっていることが、たまたまその仕事の側面にあらわれていたりするのだ。そういう瞬間に立ち会うとうれしいし、そういうひとに出会えるとうれしい。どんなことをやっていても、どんな仕事をしていても、「よく生きる」ことは誰かに何かを感じさせるもの(もちろん、いつもではなく、あるタイミングで)なのだと思う。
朝抱えていた不安感は、見事にさっぱりと吹き払われた。「よく生きる」ために、手段として何をしたらいいのか。何をしていたら、「自分はよく生きている」と感じられるのか。それを考えて、やってみたらいい。とにかく、今の仕事や、働き方について、疑問を持つことは尊いけれど、卑下する必要はない。そう思うと、すごくほっとした。今の自分も大丈夫。過去の自分も大丈夫。これからの自分も大丈夫。ぜんぶ、大丈夫。
それから、「匂い」をからだにまとう、ということ、それが周囲に発散されることについて書いてあったところも、ああ、と思いながら読んだ。
「才能のおぼっちゃん」は天真爛漫の自然体なのだ。なぜなら、それが許されてきたからである。気取りがなく、構えがなく、肩の力を抜いている。喜怒哀楽が自然である。なぜなら、世間で生きていくためのさもしい技術を学ばなくともやってゆけるからである。だから、彼らはますます魅力的になるのだ。
上記引用は、成功者がなぜ魅力的なのか、という話。わたしも、「気持ちがおおらかでみずからの才能をよく知っており、魅力にあふれた人」になりたい。「成功者」になりたいわけではないと言い切りたいけれど、でもやっぱりどちらかといえば、というかかなり、成功したいと思っていると思うし……(じゃないと、一発逆転志向にはならない)。成功も失敗も死ぬときには持っていけないのだけれど、こういう匂いをまといたい。こういうことなんだよな…………………………………………。(ちなみに、わたしがパートナーに感じているのはまさにこの「匂い」です。)こういう匂いを発散する、屈託のない、自然体の、ぜんぶをまっすぐにあらわす人間でいたい/になりたいよ。
無名の、膨大な「失敗者」のひとりに、きっとわたしもなるのだろう。でもだからといって、それが「よく生きる」ことを損なうわけではない。何もなし得なかった、つまり死ぬときに「成功」をよすがとできない、そのことこそが、「よく生きる」をきらめかせもする。そのことについても、最後のほうでふれてあった。そこも含めて、とても良い本だったと感じた。
帰り道は、昨日も聴いたFabiano do Nascimentoの違うアルバム、『Mundo Solo』を聴いてみる。あまりにもすばらしい音色……。すごいな。こういうの大好き。どれもすばらしい曲。