2024.5.30

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公開:2024/5/30

うう、動悸がやばい……。ひさしぶりに動悸を感じている。今日が心療内科の日だと思っていたら来週だったし、明日友達と地元で飲むんだと思っていたらそれも来週だった。昨日で一気に日常のペースが崩れてしまい、日々の時間の感覚がぐにゃんぐにゃんになってしまった。しかしまだ昨日のやばさを考えればいいほうで、遅刻が30分に収まったのはそれこそひさしぶりな気がする。

朝はコーヒーを飲みながら、母とたくさん話した。イスラエルがパレスチナを占領し虐殺していること、いったい何が起こっているのか、というのは昨日話しておいた。わたしがひどい現状を見て心を痛めている、それに引っ張られて落ち込んでいる、というふうにどうしても見られてしまうのだけど、わたしが憔悴して大泣きしたり怒ったりしているのは、決してひどい現状を見聞きしているせいではないんだ、という話をした。ひどいことが起こっている、ということを知ったとしても、見て見ぬふりをするひとが多いのが、すごく悲しい。「虐殺はだめ」ってみんなが思うはず、平和なほうがいいってみんなが思うはずなのに、なんにも言わない。そういう多くの人の姿に日々直面すると、無視されている気がしてすごくつらいし、パレスチナの人たちが76年間も「見て」と声をあげてきたのに、世界中から無視されてきた(わたしにだって、その声は聞こえていなかった)んだということに思い至って、もっと悲しくなってしまうんだ、と。悲惨でショッキングな出来事をたくさん見ているから傷ついているのではない。悲惨な画像や映像を見ても、受け入れがたく理解もできない現状を知っても、人が人を残虐な方法で殺し続けている事実を認識しても、何もしない人や、何事もなかったかのように自分の日常に戻っていける人がたくさん、ほんとうにたくさんいるということに、傷ついている。もちろん、自分の生活、日々の暮らしにせいいっぱいで、時間がなく、お金もなく、体力も気力もなく、ひとのこと、ましてや遠い国で起きている大虐殺のことなんて考えることができない、という疲弊した人々をたくさん生み出しているこの社会構造こそ「変えるべきもの」である、とは認識している。声をあげない人が、見ない人が「悪い」、とは、いろいろ考えたけれどやっぱりわたしは言いたくない。やっぱりおかしいのは構造だよ、それを変えないと、と思う。起こっていることに関心を向け、注意を払い、疑問を持ち、批判的に検討することができる状況に、できるだけ多くの人があってほしいと思うし、声をあげやすい社会構造に、仕組みに、雰囲気に、変えていかなきゃ、と思う。しかし、「声をあげやすい社会に変えていこう」とするためにすら、声をあげ、働きかける人を増やし、クリティカル・マス(存在や声、要求を無視できなくなる一定人数)を達成しなければならない。誰かが言って変えていかないと、ずっとこのまま、誰も何も言わない社会のままだ。そのトートロジーのような循環する矛盾の中で、わたしにはどんなことができるのだろう。それを日々考え、模索し、自分の人間関係すら犠牲に(あー、犠牲とか言いたくない!)している。

仕事場に到着して土曜日の総会の準備をし、こうして日記を書いた。書きたいことはあるのだが、言葉にするのがとても難しい。ずっと動悸がしている。