昨晩はパートナーにおやすみと連絡したら、向こうから電話したいと持ちかけてくれ、よろこんでおやすみ電話をした。限られた平日夜の時間で、流れるように話すあの感じが好きだ。話しているうちに心地よくなって、よく眠れそうと伝えて電話を切り、ぐっすり眠った。遠距離になる前は2〜4時間じっくり話していたけど、忙しくなってからは寝る前の15分〜30分の電話や、すこし時間が取れる日の1時間ほどの電話も増えてきた。時間が合わない時期は、別々の時間にボイスメッセージを送り合っている。わたしがパートナーの声をとても好きだというのもあるし、声って「情報」の密度が高いと思っているので、声でやりとりすることがパートナーシップにとって大きな役割を果たしていると感じる。相手の調子がよくわかるのは、短いLINEの文章よりも、ほんの1分のボイスメッセージなのだ。パートナーはわたしやわたしの友人たちと違って、「文章の人」ではない、というのもあるね。文章のバイブスが合う人間と友だちになりがち。
朝起きたら、母がiPhoneを失くしたらしく、大捜索した。家の中で失くしているのに、まったく見つからない。探すもオンになっていないし、オンになっていたとしても家の中だろうから意味がない。どんなに探しても見つからないので不思議だった。骨折してパートナーと喧嘩してスマホまで失くす母、さすがに重なりすぎていて、なんと声をかけたらいいかわからなくなる。
朝ごはんをひさしぶりに食べた。梅醤番茶(すりおろした生姜入り)、玄米、納豆。最近は朝おなかがすかないことが多いので、ひさしぶりに朝からおなかにものを入れたこと自体に満足した。残った生姜にはちみつを入れてお湯で割る。
シャワーを浴びて、食器を洗って、洗濯物を干した。ひさしぶりにお弁当を準備した。
今日はガーゼの刺繍ワンピースにデニムを合わせた。受け取ったばかりの、きれいなクロスのブレスレットをつける。外はよく晴れているので、パートナーが贈ってくれたお気に入りの日傘を持った。
またまた出勤のお供に「寅の子すて〜しょん ep. 84 祝!寅すて3周年/『僕らの恋愛シェアハウス』S2の話」を聞く。
窓辺さんが、こなものちゃんのheartwarmingな言動に対して "Aww......" とリアクションしていているのを聞き、自分以外にこの反応をする人をはじめて見つけてめちゃくちゃ喜んでしまった。いた!!!sweetな言動を受けたときや見聞きしたとき、わたしもついそう言ってしまう。
ここ数日、通勤の電車でラブリーな人間を見かけることがあって、そのたび胸にあかりがぽっとともるようだと思う。ホームでアリアを歌う子どもがいる。向かいに座ったのは、みはしのあんみつを一つだけ買ったであろう袋を持っているひと。電車に駆け込んできたひとのかばんから、服を着たテディベアがはみ出ている。たまたまそこにいてくれてありがとう、と思う。ただそこにいることって、こうして誰かにとっての何かになることがあるんだよね。ただそこにいることをよろこばしく思う瞬間のことが好きだ。
1時間遅刻くらいで仕事場に到着した。日記を書くにも気が散ってしまうので、晴れている日に外に出ておこうと郵便局で用事を済ませた。窓口の方が「いつもありがとうございます」とほほえんでくださって、こんなふうに見知らぬひとにやさしくしてくれるなんて、と心がうるうるになった。そのひとがそのようにしてそこに在ること、多くの人々にやさしさを手渡していることの尊さを思う。わたしは昔から、あいさつや声かけで元気を与える仕事をしているひとにたいして、「これこそが、この世界をよく保ってくれているんだよなあ」と思っている。バスの運転手さんや車掌さんの気遣いに満ちたアナウンス、工事現場の警備員さんのあいさつ、お店や窓口のカウンターの方のさりげない一言。そのうつくしい仕事は賃金の範囲を超えているので、どうか給与を上げてほしい。やさしいひとが街中に存在しているこの世界よ。
今日はいつぶりか思い出せないくらいひさしぶりにお弁当を持ってきて食べた。スープジャーに入れてきた、生姜を効かせたお味噌汁がおいしかった。
お昼ごはんを食べたらやる気が出るかと思いきや、日記を書くことに集中力を使い果たし、結局仕事は細々としたことしかできなかった。市民運動のほうも細々とした作業をした。明日はたっぷり仕事をする予定(来客までに片付けておくことがたくさんある)なので、多分なんとかなる。「ギリギリで生きる」を「Real Face パーソン」と呼ぶひとがおり、わたしも使おうと思った。わたしもReal Face パーソンです。
午後は本を読んでいた。友人が寄稿したZINE『よい花はあとから』と、誕生日プレゼントにもらった『魔女たちのアフタヌーンティー』をどちらも読み終えた。
『よい花はあとから』は、24人が春が来る前の季節に書いた文章を寄稿したもの。編集は風音さんというフリーライターの方で、さまざまな形式のさまざまな文章が、バトンを渡すように並べられていた。こんなふうにわたしも友人たちと本をつくりたいなあ、とわくわく。思ったよりも読み応えがあり、ぽわんとなるような、すてきな本だった。水槽ちゃんの文章もよかったので、ぜひどこかで手に入れて読んでね(貸します)!いろんなひとに、いろんな日々が、そして人生があること。そのことを愛おしく感じる。
本を読んでいるあいだ、ずっとFabiano do Nascimento『Ykytu』をスピーカーで流していた。静謐で甘やかなギターの音。アルバムタイトルは、ブラジルの先住民族グアラニー族の言葉で「風」を意味するらしい。ナシメントは(ナシメントで有名なひとは二人いるらしいですが)多弦ギターのイメージがあったが、このアルバムは多分違うのかな。
わたしは密閉された音響で聴くよりも身体全体に響いてくるほうが好きなので、ついスピーカーで空間に流してしまうが、帰り道でヘッドフォンで聴くのも、さらりとどこかよい風の吹くひらけたところへ連れて行かれたような気分。とても気持ちがいい。
今日は自分にとってはさらっと読める本をひたすら読んだだけで、他には何もしなかった、と言ってしまいたくなる。実際には、ほんのすこしは何かやっているのに。すこし前までは、本すら読めない日だってあったはずだ。YouTubeを観るしかできなくて嫌だったと、つい数日前に書いたじゃないか……。本を読めるだけでも、調子のよい日だ。気分が落ち込まず、焦燥感に駆られず、数時間読書をしつづけることができた。それだけでも回復しているのだ。回復しているときほど、「何もできなかった」感じがするなあ、と思う。もっと深く落ち込んだり、調子が悪すぎたりすると、もがいているから、そんなことすら感じない。ただ生き延びた、この時間を塗りつぶした…… それだけで、重たい身体と頭を引きずるようにして、家に帰るのだ。それと比べたら、「何もできなかった」日のほうが、やっぱりだいぶ調子がいい。すこし回復してくると、こういうことがよくあると感じる。回復してきているんだな、と思うことにする。たぶんそのほうが実際に近いもの。
今日はたぶんキッチンに立ち入れるので、何か作って食べて、入れたらお風呂にも入って、ゆっくり眠ろう。