2024.6.22

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のんびりできる土曜日だった。遅めに起きてきて、母とお豆腐のケーキを作ったり、コーヒーを飲んだり。祖母から届いたいちごジャムにはごろごろとまんまるの果肉が入っていて、甘さ控えめで酸味もあり、美味しかった。今日は休まないと、と部屋に戻って二度寝した。うとうと眠れて、とても嬉しかった。昼間に眠るのって格別だ。

シャワーを浴びて、身支度した。今日は30℃。明日は雨予報なので、今日のうちに可愛い服を着ておく。コットンのパンツにリネンのブラウス、その上からレースのベストを羽織ってリボンを結んだ。今日の用事がだるかったので、こうでもしないと気分がもたない。ひさしぶりに香水もつけた。この香水、もう6年くらいつけている。

午後は都知事選に向けた街頭スタンディングとチラシ配りへ。地元の駅、ぜんぜん熱気がない。なんだか気が乗らず、1時間が長く感じた。「大丈夫です」とチラシを固辞する人たち、今の政治がそのままでも「大丈夫です」なんだろうな…… と思う。大丈夫って何だろう。

その後、夜の都知事選の集会(個人演説会)の集合時間まで、「かすたねっと」という大好きなお菓子屋さんで過ごす。先週も来ました。全部お菓子や飲みものが割安なのだよな(就労支援B型事業所なので)。今日はフェンネルとカモミールのハーブティーに、休日限定のベイクドドーナツを頼んだ。

ベイクドドーナツ、ほわほわでうれしい。ドーナツはいつだって食べたいもの。

本を持ってくるのを忘れたので、外にあった貸出用の小さな図書館から中島岳志『自分ごとの政治学』を持ってきて読んだ。中島岳志って自分のこと保守と呼んでいたよなあ、みたいな淡い記憶があり、ちゃんと読んだことないがどうなんだろうとわりと懐疑的に読みはじめた(今調べたら、『思いがけず利他』の著者か!そんなに怖がりながら読まなくてよかったのかも)。「保守」「リベラル」というラベルが機能しなくなっている今、リベラルの対立軸は保守ではなく「パターナル」だ、という説明に、確かにそうだな、と思った。現状で流通している意味は無視できないのでわたしはその区別を使うことはないと思うが、政治学にふれたばかりの人には捉えやすい軸だろうな。むしろ保守とは、「永遠の微調整」によって「漸進的な改革」をめざすとする。それを中島は「リベラル保守」と呼びたいということなのだろうが、それは別の著作で詳しく書かれているのかな。わたしは保守=パターナルと捉えていて、保守が保守本流の矜持を守ってこなかったんでしょう、だからあんなに主張が一貫してないんだよ(最近、沖縄で起きていることについて「保守」がまったく「日本」の歴史を顧みないし大切にしない、むしろ消そうとすることにびっくりした。書くの大変だから割愛するが、こういう保守派の矛盾、気になって仕方ないんだよな)…… と思っているので、リベラル保守概念に納得はしても名乗りたくはないな。保守というラベルの内実を定義しなおして「保守」と名乗る人を拡大させる(「本来の保守はこういうものなのだから、自分のことをリベラルだと思っていたそこのあなたも保守と言えますよね」みたいな目配せ)のって、現在の文脈でやるのはどうなんですか、と思ってしまう。良い意味合いを「保守」の言葉に取り戻そうとするのって、どんな効果を生むんだろう、と思ってしまいます。リベラルって結局保守的だよね、今のリベラルも中道右派だし…… みたいな「リベラルと保守は一緒」議論とは別で、「保守って本当はリベラルなんだよ」と主張することは、リベラルがかろうじて握っている良い意味合いを保守に明け渡す感じがして、うーんとなる。そもそもわたしってリベラルでもなくラディカルだし。学生時代、ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』をベースに、リバタリアンとリベラルについて政治学で学んでいたのを思い出しますね。こういう政治の派閥の用語整理って、歴史を踏まえつつ現在の使われ方を加味しないといけない。パターナリズムが嫌いなのはもちろんそうだが、リベラルでもないわたしよ。

いちばんよい議論だと思ったのは、政治には「死者」との対話が必要だというところ。生きている者たちの多数決(民主主義は多数決ではないとわたしは思っているんだけど、この著作のなかでは民主主義=多数決としていました)ではなく、死者との対話を通して「ここからはだめだ」と線を引く立憲主義をこそ復権させるべきだ、と。わたしは政治とは、「今ここにいない者」との対話だと思っている。選挙権がない外国人や17歳以下の子どもたち、政治に関心を持たない人、政治で変わることなど何もないと思ってしまう人、何らかの事情や状況、身体的な条件などで、思うように政治参画ができない人。そして沈黙する、先に死んでいった者たち。そんな「今ここにいない者」とともにあろうとすることが、政治的な営為なのではないか、とわたしは思う。「今ここにいない者」の声を聞こうとすること、対話すること、そして、「われわれ」のなかに含み入れること。いないことにされ、周縁化され、排除され、抑圧され、無視されてきた者たちと対話し続けるプロセス。

また日本は「小さすぎる政府」であることも指摘されており、データとともに読むとすさまじい。「小さな政府」どころではなかった。ここももう少し詳しく知れたらいいな。いい本を探そう。

ガンディー研究をしているゆえ、「身近なところから政治をはじめる」みたいなことが言いたかったんだろうけど(だからタイトルも『自分ごとの政治学』なのだろう)、その具体例がまったくなかったのでピンぼけした印象だった。衣食住のことだけでも、ヴィーガニズムという考え方があること、わたしたちが買うファストファッションや安いお菓子の裏に過酷な労働があることなど、日常の選択が政治的であると指し示すことはいくらでもできるはずなのに、そういうのが皆無だったんだよなあ。

しかしあの分量なので、あげたような問題点や物足りなさも仕方ないか、という感じ。「2時間で読める!」と帯に書いてあったが、30分で読めた。うん、仕方ないね。

集会準備に向かい、いよいよ都知事選の個人演説会。200人以上が集まった。蓮舫都知事候補を応援するために、宇都宮けんじさんも来てくれた。わたしは最後の共同代表挨拶を任されており、行動提起ってなんやねんと思いつつ、話を聞きながらぱっと原稿を書いて、無事にあいさつを終えた。200名の会場でマイクを持つことってなかなかないので、「良かった」と言ってもらえてとても嬉しかった。

その後事務局と共同代表と議員での会議をちゃちゃっとやって、仲良しのおばあさまと飲みに行った。いい感じのところに連れて行ってもらって、とても楽しかったし嬉しかった。いつも気にかけてくれている。ありがたいなあ。おいしいものたくさん食べました。先付けは、出汁とお豆腐にオイルとお塩と白胡麻、生ひじきと枝豆のポテトサラダ、ピーマンの丸ごとグリル、かぼちゃととうもろこしと小海老の春巻き、台湾パイナップルとクリームチーズの白和え、戻り鰹の塩たたき、蕪、新玉ねぎ、おかひじきの天ぷらに抹茶塩、お出汁の焼きうどんレモンチーズ仕立て。木内のだいだいエールを飲んだ。どれもしみじみ美味しく、特にピーマンは地元のもので、大きくてあまく、じわっとまるで出汁みたいに旨みがあった。

ピーマンの丸ごとグリル。とても大きい。

戻り鰹の塩たたきは、塩たたきが食べてみたくて頼んだのだが、つやつや光っており、おいしかった。

ああ、楽しかった。

いい気持ちで帰路につき、帰ってすぐに眠った。