朝いちばんにSNSのタイムラインで谷川俊太郎の訃報を知る。ああ、ついに。谷川俊太郎はわたしにとって、人生にわたって影響を受けてきた詩人。朝はなんともなかったが、電車のホームの階段を下りながら冷たい風を頬に浴びたとき、涙が滲んできてしまったことに、自分で驚いた。
今朝は寒くてなかなかベッドから出られず、うだうだ毛布にくるまっていた。本当は早く仕事場に着かなくちゃいけないのに。遅刻が確定するころにやっとえいっと飛び出て、暖房をつけ、コーヒーを淹れ、POM POM CAKESのバナナケーキをリベイクして食べた。きめ細やかなふわふわの食感、バナナの甘み、なんと言ってもスパイスのいい香り!とっても美味しかった。そろそろコーヒー豆も買わなくちゃ。
お弁当を詰めて、シャワーを浴び、髪をセットし、メイクもして、身支度。今日は13℃予報と昨日よりも冷え込みそうだったので、ついにセーターを着る。インナーも長袖、タートルネックと着込んで、クリーム色のアランニット、ウールのタイツを穿いたうえからsuzuki takayukiのパンツ。それに合わせてブラックのやわらかいストールをボリュームが出るように巻いた。髪型をショートにしたら、マフラーとのバランスもちょうどよくてかわいい!うれしいね。折坂悠太のでっかいジャムトーストのトートバッグを持って出勤。
電車では日記を書いて、よしもとばなな『アナザー・ワールド 王国 その4』を読みはじめ。そんな時間はないというのに、なんだか寄り道したくて、道中のお店でコーヒー豆を購入。たくさん種類があって、説明書きもあったので、おいしそうだと感じたものを選んだのだが、試飲できないので勘である。チョコレートのような甘みとコクと書いてあるブラジルと、ジャスミンの香りとダークチョコレートの後味と書いてあるニカラグア。ケニアとかエチオピアが慣れているしそれらを買うべきなのだろうけど、どうしても説明書きの良さで買ってしまう癖。口に合うといいな。
45分遅れくらいで仕事場に到着。来客はまだだったようで、ギリギリセーフ。なんてことない作業から仕事を始めて、複合機の手入れをしてもらって、会計作業をやって、3時間くらい経ったらやるべきことが終わった。意外と仕事って数時間で終わるんだよなあ。細々とした、こつこつやる作業が苦手なのは痛手だ。
ふう、と持ってきたお弁当でお昼にし、本の続きを読んだ。この後図書館に行って何冊か返却予定だったので読み終えてしまおうかと思ったのだが、焦ってざらざら読んでしまうのももったいないな、とぱたんと閉じる。読み終えた本(『王国』その2とその3だ)をかばんに入れて、上着ははおらずマフラーをぐるぐる巻いて外へ出た。
風は冷たかったが、午後2時の日差しのおかげでいくぶんやわらいでいた。歩いていると身体がほかほかしてくる。プラタナスの大きな葉が目印みたいに落ちている。ああそうだ、わたしはこのような、透明で淡い金色のまっすぐな光が好きだったんだ、と思い出す。いちばんよく書けた詩は、そのような光のなかで生まれてきたものだったように思う。毎年きっとこの光の色のうつくしさにはっとしている。図書館に本を返し、さらっと本を借り、帰り道をまた歩き、からだが温まっていい気分になった。ひさしぶりにこんなにいい気分だ、毎日がこうだったらいいのに、と思った。
仕事場に戻ってきて編み物をして、アイロンがけが必要なところまで編み終えてしまったので渋々片付けて少し仕事をする。夜は月に一度の会議だったが、わりあいすぐに終わった。いつもよりも楽でよかった。これからのタスクも見えた。やはり、ちゃんと仕事があると調子がいい。昨日今日はこの会議に向けていろいろと準備をしたり突っ込まれないように別の仕事を進めたりしていたのだ。母に、「やることがないほうがずっときついよね」と言ってもらったことを思い出す。暇なほうがよほど、よほどつらいのだ。仕事がある数日間のおかげでメンタルヘルスも快調に向かっている。気持ち悪さも動悸もなかった。
帰りの電車は友人たちとラインでやりとりをしていたらあっという間だった。近しい友人たちのことが本当に大好きだ。いつも心の近しい場所にいてくれてありがとう。
パートナーに連絡したら電話できるとのことだったので、帰宅して部屋着に着替えてすぐに電話をかけた。すでに21時をまわっていた。遅い時間だが、電話しながら夕食を作った。といっても、大根サラダだけ。パートナーはすでにめちゃくちゃ眠そうにしていて、何度か「もう寝たほうがいいんじゃない?」と声をかけたのだが、うとうとしながらぼんやり話したい気分だったらしい。わかる、そういうときってある。
ツナと塩昆布の大根サラダ
白菜とおあげさんのお味噌汁
厚揚げと大根のナンプラー胡椒煮
十穀米
ビール
でした。同じ食事の中に、同じ野菜が入ってしまっているが、まああるある……だよね。平日なのに、パートナーとの電話に浮かれてビールあけちゃった。パートナーが眠そうな声で相槌を打つのに、わたしときたらアルコールも入って元気なもので、「じゃあ眠らせてあげよう!」ととびきり陽気な子守唄を歌い、パートナーを大笑いさせた。「ねーんねん」の「ね」ですでにめっちゃ陽気だった。しかも「おころりよ」までしか歌えません。妹の子のために練習しておかないとな。
酔った勢いもあって、しかも最近とみに甘えたな気分だということもあって、パートナーに「あなたのごまかしのないところが好きだよ、誰の前でも」と伝えた。近頃吉本ばななを読んでいるからか、自分のまわりになぜかいてくれるひとの存在を、とてもありがたく思える。不思議だ、こんなに地球上にはたくさんの人間がいるのに、限られたひととしか出会わず、友だちになれないなんて!パートナーは「全人類と友達になるなら、脳みそがみっつあって、富岳と繋げないと無理かもね」と言っていた。自分をいいふうに見てくれるひとがいるって、ものすごいことだと思う。いまの自分がいい感じかどうか、光っていられているのか、正直なところ分からない。つらさがわたしを覆ってしまっているような気がする。それでもわたしの光を発見してくれたひとが、あれから時間が経って状況が変わってもまだそばにいてくれて、どうやらこの先もずっと(おそらくあと125年くらいは)一緒にいてくれるつもりであることを、隣にいることによって示しつづけてもらえていることに、助けられている。パートナーはめくるめく「だいじょうぶ」の塊みたいなひとで、まあそうでないとわたしみたいな変わった人間とはやっていけないと思うのだけど、すごいなあと嫌味なく感心する。わたしは見て見て人間なので、自分のことはもちろんパートナーすらも周りのひとにも見せびらかしたいという欲望があるのだが、そのような欲を抱けるのもパートナーがあまりにも「だいじょうぶ」だからだなあ、と思う。パートナーは誰にも「納得できなさ」を感じさせることがない。受け入れてもらえる。その受け入れられることをあたりまえに享受する姿のことを、わたしはとても好ましく、頼もしく思う。愛されること、自分はここにいていいと思うこと、自分に不足はないと言い聞かせるまでもなく確信すること、どんな状況もなんとかfixできると感じられること。そういうすこやかさが備わっているひとは実際あまり多くない。とても恵まれた(talented)ひとだと思う。いっぽうわたしは、嫌われたことはないと信じたいが(嫌われるよりも先に嫌いになるので)、実際以上に大きく見られたり、逆に難しい顔で「どうして」と疑問をぶつけられたり(それも実際より大きく見られているように感じる。ほかのひとの分まで答える責任があると思われているみたい)と、万人に存在を納得してもらえる人間ではない。この違いは大きいものだと思うし、パートナーに負担を負わせるかたちになってしまうのだが、この関係について周囲に納得してもらうことに関してだけは、どうか半々くらいで一緒に頑張ってほしい。
うーんやっぱり、自分の性質をもっともっとよく知る必要がある。みんなのことももっとよく知りたい。性質だけではなく状況によるものも多いだろうけれど。よく考えてみたい。
電話をしていたら目が冴えてきてしまったパートナーにおやすみを言って、23時前に寝た。