2024.5.18

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公開:2024/5/19

土曜日なのでゆっくり起きてきた。今日は階下のヨガもなく、母も旅行でいないので、一人で広い空間でのんびりしている。

先日プレゼントにもらった、ハーブティーブレンドキット(勝手に命名)から、感覚で入れたいハーブを選んでいく。わたしは酸味のあるものがあまり好きではないのだが、今日は明るくなりたくて、ローズヒップとハイビスカスを中心に、ダンデライオンルート、エキナセア、セントジョーンズワート、グリーンマテにした。それぞれの味や効能は分からないけれど、なんとなく、どっしりと、そしてのびのびとした感じをめざした。やけに種類が多く、これまでブレンドしてもまだ使っていないハーブがあるな…… と思ったら、15種類ももらっていた。びっくり!色がきれいな濃いピンクだったので、うれしくて白いティーカップに注いだ。ひと口飲んだら、ハイビスカスの味しかしなかった!しかし、このなかにすべての成分があるので…… と思いながらハイビスカス味のブレンドハーブティーを飲む。相変わらずドライフィグとアーモンド入りのノンシュガーチョコレートを食べる。

Marina Herlop『Pripyat』を流して、本を読む。

この前ぱらぱら読んで気になっていた本を最初から読み通そう、ということで読んだ。『kaiのチャクラケアブック』、エピソードの前にトリガーワーニングがあるし、医療機関やカウンセリングへよるアクセスを視野に入れること、家族を「人間」に限定しないこと(「家族を持たないとチャクラが整わない」みたいなシングル差別はしない)、などもしっかり書いており、すごかった。第5チャクラの途中まで読み終わった!自分のことを内省できるからいいなあ。飲んだハーブも登場して、「おお、そういう効能があるのか」とふむふむ読んだ。ハーブティーは早々に飲みきったので、今度はハイビスカスティーにはちみつをいれよう!とお湯を沸かして煮出したものが、ローズペタルだった。すでに開いてる袋があるじゃん、と思ったら見間違えた。先にはちみつをたっぷりポットに入れてしまっており、それに対してお湯が足りなかったので、追加でハイビスカスも煮出して、結果的にローズとハイビスカスにはちみつを溶かしたものを飲んだ。こうして意図を超えたことが偶然起こると、今の自分には、ローズが必要なのかもしれないなあ、とか思う。そういえばこの前の鍼灸で、今は薔薇の季節だから、薔薇園に行って香りをかぐといいかも、と言われたのだった。

午後はその鍼灸師さんがチケットがあるからと誘ってくれ、オーケストラを聴きにいく予定がある。シャワーを浴びて、身支度をして、大好きなリネンの小花柄のワンピースを着た。ポストに頼んだシルクの腹巻きが届いていた(シルクは動物性だから、本当はあまり選択したくない素材。蚕を殺さずに繭からシルクをとる製法もあるみたいなのだけど、安価なものだとおそらくシルクはそうやってとっていないだろうなあ。植物性のものを選ぶ気力がなかった)ので、さっそく開けてつけてみた。ふわっとしてあたたかくて、おなかのあたりをやわらかく包まれているみたいでとても安心する。腹巻き、とてもいいかも……!マーキントンのぬいぐるみをだっこしているときと同じ気持ちになる。むしろ、ぬいぐるみに包まれているみたいな気持ち(?)。腹巻きがこんなにいいものだとは知らなかったな。2枚セットだったので、妊娠している妹に1枚あげます。

シルバーの靴とナーベルソムレースのちいちゃな鞄を合わせて、にこにこで外に出たら、とてもあたたかくて「外!」という感じのいい匂いがした。玄関を出たときや、窓を開けたときの、あの外の匂いが大好き。本を読むだけで午前を使ってしまったので、家に帰ったら家事をやらなくては……。

電車に乗りながらこの日記を書いていて、普段ぼんやりと感じるがことばにならないことって結構あるなあ、と思った。あれもこれも、書きたいけどまだ書けない。先日読み終わった『句点。に気をつけろ』は、まさにそういう「なめらかで、組み立てられた、ひとまとまりの話」ではなく、自分が何を感じているのか、ということに焦点を当てようとする本だった。特にそのなかで自分に「引っかかった」(この感覚は、「なめらかでつるつるな話」に対照的だ)のは、著者の尹雄大が、「自分自身が無力でなく、力があるのだということ」を折りにふれ話していたことだ。傷ついたのだな、ということを認めたうえで、傷つけられることを選ばない、過去の傷を反芻して自分を傷つけ続けない。このあたりのニュアンスはすごく難しくて、読んでいてすとんと納得するものではく、引っかかりを覚えた表現(特に例示の部分)もある。しかしそれでも、「傷ついた」と感じるとき、それはもしかしたら、「その人がわたしを傷つけた」がゆえの痛みではないのかもしれない。(あるひとの心がよわくもろく繊細なせいで傷つきやすいのではなくて、傷つけてくるものがあるから傷がつくのだ、とやっぱり思いはするが、ここでは尹雄大を読んで感じたことに沿って、話を進めてみることにする。)「傷つけられたこと」ではなくて、「自分がそれに対して何もできなかったこと」に傷ついているし、やるせなさを感じるし、怒りすら覚えるのかもしれない。そういう話を読んで、たしかになあ、と思い当たる部分があった。わたしが(憤りではなく)「怒り」を覚えるとき、決まって「わたしにはどうすることもできない」「どうしたらいいか分からない」状態にある。自分は無力だと思うと、怒りが沸いてくる。

たとえば、わたしがずっと傷つき続け、混乱し続け、怒り続けていることがある。友人だった人間がSNSでヴィーガニズムに否定的に言及(「素朴な疑問」というかたちで)したことがきっかけでもう無理だと思い、絶縁して合唱団を辞めた。大切だと思っていた友人もコミュニティも一気に失い、怒りと悲しみに苛まれ、どうしたらいいか分からなかった。わたしはあの時、さまざまな理由でその人の言動を批判したし、ある程度冷静になった今でも言動の問題点を正当に指摘、主張することができる。しかしそれはそれとして、わたしがもっとヴィーガニズムについて知っていたら、あんなにままならない怒りは沸いてこなかったかもしれない。もっと効果的な…… だめだ、ここまで書いて、やっぱりわたしがわたしの怒りを宥めることが悔しいし、なぜ「わたしが知っていないといけない」のか、なぜ「わたしが徹底して実践していないといけない」のか、やっぱり分からない(分からないというか、そんなふうに徹底した実践をする必要も懸命に勉強する必要も、本来はない)。ただ、もっとヴィーガニズムのことをよく知っていて、実践していて、「こんなことを言われたとき、どうしたらいいか分かる」のだったら、たぶん怒らなくてよかっただろう。この人の前でわたしが何かやることや言うことができないこと。何をしても何を言っても無力だということ。そういうことが押し寄せてきて、わたしは傷ついたのだろう。何もできなかったから、術を持たなかったから、無力だったから、傷ついたのかもしれない。

……でもそこから、どうやってはじめればいい?どうやって、「わたしは無力ではない、力がある」と確信して生きられる?わたしはそこで、完璧にやらなきゃ、徹底してないから馬鹿にされるんだ…… と、model minority(模範的なマイノリティ)のように振る舞ってしまった。以前のようにほがらかにヴィーガンでいられなくなった、自分の実践について、想いについて、「できる範囲で、適当にやって、続けている」なんて話せなくなった。もっとちゃんとヴィーガンをやらなきゃ、って思った。その想念は、一種の強迫観念のように、わたしの生活を押し潰してきた。

わたしは無力ではなく、傷つく必要はないって、どうやって知るんだろう。あのとき傷ついた。でもあのときはあのときで、今は今。今もなお傷つき続ける必要はないことを、どうやって身体で納得すればよいのだろう。半年経つのに、未だ困惑し続けている。この半年で勉強したし、これからも勉強する。自分のスタンスはより明確になったし、実践する領域や範囲も広げた。でもこれって…… これって安心につながるのだろうか。わたしが無力ではないと知る方法は、わたしには勉強しかない。徹底しかない。そんなのって、わたしがわたしでいることにやすらう、というのと程遠い気がするよ。ぐるぐる考えていると、やっぱり、なんであんなふうに人のことを馬鹿にするんだろう…… 人のあり方に口を出すのだろう…… というところに戻ってきてしまう。反芻して傷つく必要はない、はずなのに。ポジティブなフィードバックを受けながら、信頼できる誰かに話したほうがいいんだろうな。この悔しさが、つらさが、きっと誰にも分かってもらえないんだろう、と思っていつも怖いよ。

サントリーホールで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(大好き!)と、交響曲第2番を聴いてきた。サントリーホールってめっちゃいいホールらしいですね。名前は聞いたことあったが、知らなかった。ピアノは牛牛さん。わたしでも聞いたことがあるピアニストなので、かなり有名なんじゃないだろうか。クラシック音楽を聴きにいくことがあまりない人生で、オーケストラを聴いたのは本当に幼い頃以来だと思う。大好きな曲を生で聴くことができて、すごく嬉しかった。小さな音がとてもきれいに聞こえた。ピアノ協奏曲第2番第2楽章のあるフレーズの美しさにはじめて気づいた。生演奏ってやっぱりこういう発見があるから楽しい。隣の人がすぴすぴ寝ていて、美しい音楽に揺られて眠るのがいちばん生き物としてしあわせなことなんじゃないか、と思ったりした。

夜は食料自給と持続可能な農業についての講演会を企画していたので司会をやりにいった。その前に絶対にモスバーガーで腹ごしらえすると決めていたので、ずんずん入り、残り1席だったのを取って、レジに向かった。ソイパティにしたとしてもミートソースか…… 割高だしテリヤキってそんなに惹かれないけど…… とうんうん悩みながら、(たぶんヴィーガンも食べられるが、ヴィーガンとは書いていない)プラントベースのグリーンバーガーを頼んだ。動物性食材と五薫(にら、にんにく、玉ねぎなど香りの強い野菜。仏教などの宗教では避けるべきとされ、健康維持を目的としたオリエンタルヴィーガンの人も避けているそう)不使用、植物性食材と穀物で作った緑色のバーガーに、特製のソースが別添えで付く。ヴィーガンの食生活をしていると、ある領域のジャンルや調理法、味や食感から遠ざかることがあるので、たまにでもバーガーを頬張れるのはありがたい。オニポテ、アイスティーにレモンをつけてもらった。しっかりくし切りのレモンを入れてくれて、嬉しすぎる。モスのアイスティーっておいしいんですよ(受け売り)。モス、マジでありがとう。マックは、パレスチナを占領・虐殺・民族浄化してきた/しているイスラエルに加担したくないから、不買しています。 BOYCOTT ISRAEL! モスのバーガーって野菜がしゃきしゃきしていてみずみずしく、美味しい。レジの方が優しくわたしのメニュー選びを待ってくれ、にこっとしてくれて嬉しかったので、アンケートにお名前を書いてお礼を伝えた(本人に伝えたかったので)。それはそれとして、サービス業に従事するひとが名札を付けるのってはやくなくならないかな、ストーカーの被害につながるとよく聞くし、必要ない。どうしてもなら、イニシャルか、偽名にしたほうがいいよね。

イベントも1.5倍速にしたかったが、無事終了した。日本の農業の問題、すごくやばい……。農業基本法が改定されること、ぜんぜん報道されていないんじゃないかな。「食べること」って、生きていくうえですごく身近で、毎日やることなのに、ぜんぜん目が向かないよね。これって、生命維持に必要な再生産に関わる労働、仕事が不当に貶められてきた構図とよく似ているなあ、と感じた。これからもうすこし勉強していきたいなあ。「アグロエコロジー」という概念を知り、ちいさな単位でやっていくことに親しみを覚える。やっぱり、有機で自分で食べる分くらいの野菜を育てたいなあ、と思った(もちろん農薬は適切に使ったほうがいい、という意見もあたりまえにあると思うのだけど、大量生産しないのであれば、有機でやりたいなあ)。それは「すてきな夢」でもあるけれど、それだけではなく、思想であり、実践であり、運動であるのだと思う。というか本当に、思ったより農政やばいですよ…………。輸入している食材にどんな農薬がどんなふうに使われているか、そしてそれがどう流通し、加工され、わたしたちの口に入っているかなんて、知らなかった。農業と政治制度って密接だ。キャッチアップするのはまだ難しいから、今の問題点が簡単に分かる入門書や動画を見つけたいな。

イベントが終わって帰宅して、めずらしく夜にお風呂に入った。届いていたARGITALのグリーングレイペーストをさっそく使ってみた。ごわごわが即座につるつる!という感じではなかったけれど、いい匂いだし使い続けるのが楽しみ。

パートナーと電話の約束をしていたが、友人と食事するから明日の朝でもいいかと打診があり、「話したかったから残念だけど、たのしんで!」と伝えたら謝られた。あなたが謝る必要はどこにもない!たのしんでくる、でいいんだよ!と思ったが、わたしの「いじけ」が伝わったんだ…… と思って謝った。しかし結局はやめに解散したらしく電話できることになり、(わたしけっこういじけてるけど大丈夫かな……)と内心思いながら電話した。「いじけちゃった!ごめんね」と話していたのだが、わたしとの電話の約束が「先約」であったため謝った、とのことらしい。まったく気づかなかった!!熊本で唯一の友人と食事するタイミングなんて、絶対掴んだほうがいい!そのときにいちばん楽しそうなことをやってほしいと思っている。わたし、先約がどうかでいじける人間じゃなくて、いい人間だな!

わたしたちは二人とも、いわゆる「へんなひと」が好きなのだが、「この人と仲良くなりたい!」のフックってどこにあるんだろうね、という話をした。わたしはわりとフックがあるらしい(いい私大を出て「就活」しなかった、というだけでも)。パートナーは、その点だけを取り出すとつるつるらしい(別の人にとって別の意味ではフックになる肩書きや経歴を持っているが)。「ここに辿り着くまでのプロセス」に興味が持てる、というのがフックなんだと思うが、それは共通項だったり、明示された信念だったりする。やっぱりそこで、「同じ」であることだけでは足りなくて、きらっとしたものが必要かも…… とも思う。そのきらめきは反射光だから、わたしがどこに立っているかで、見えるか見えないかが変わる(その人がどうこうというよりは、どういう位置関係にいるかで、それがきらめくかどうかは決まるのだと思う)。わたしはできるだけ多くのひとのきらめきを見たいし、気づきたいと願っている。「このひとにはこんな素敵なところがあるんだ」「このひとってこんなにおもしろいんだ」って、いっぱいいっぱい、驚いていたい。でも同時に、そんなに多くの人に興味を持てるわけでもなく、バイブスを優先するくせがある。

そんなこんなで、人間と仲良くなりたい期が来ました。あなたのこともっと教えて!