今朝は7時までぐっすり眠った。ここ最近ずっと、誕生日祝いにパートナーにもらったマーキントンのぬいぐるみを抱いて寝ているのだが、朝起きたときに腕のなかにふわふわがいるのはとってもうれしい。
昨日は寒かったが、今朝はうって変わってとても快い天気だった。ひんやりとした空気が腕にふれるのが心地いい。これこそがまさに、わたしの愛する五月の朝だ。
ジエノゲストを12時間おきに服用していないせいか、月経と同じくらいの量のの不正出血があり、月経カップには半分くらい血が溜まっていた。いつ婦人科に行こうか迷う。ごはんの時間がまちまちなので、やはり服薬は向いていないかもしれない……。しかし排卵を止められるのは自分にとってはprosだし、ミレーナは排卵自体は止めないものだからなあ、とも思う。もうすこし迷ってみよう。
わたしは朝に湯船に浸かるのだが、入浴後はかならず、母がアロマオイルを背中と顔に塗ってくれる。すこしずつ肌荒れもよくなってきた気がするが、あまり治らないので、そろそろ皮膚科に行ってビタミン剤と漢方薬をもらってきたい。洗顔料と化粧水もラインで揃えたいので、ヴィーガンのものをあらためて検討しなくちゃ。
今朝はなんとなく家にいるのが楽しくて、2時間くらい仕事に遅刻した。母が買っていた『kaiのチャクラケアブック』がおもしろく、ぱらぱらとつい読んでしまった。母が服部みれいの名前を出していたのは何だったんだろう(読んだ部分には出てこなかった)。
コラムを読んでいたところ、著者のkaiさんがゲイだそうで、同性婚の法制化はすべきだと言及していた。選択「しない」のと「できない」のは違う、と。同時に、当事者たちが「ほっといて」と言ったとしても、選択肢があることは必要だ、とも明確に言っていて、権利獲得運動のバックラッシュとして引き合いに出される「当事者は権利を望んでいないし、差別なんかされてない」という体制派の「当事者の声」には批判的だった。また、スピリチュアルな文脈でなされる話は、まだまだジェンダー表現や、親密圏とされる(家父長制の執行システムとしての)「家族」像などに、現実に即した修正が加えられていないことが多いのだけど、kaiさんはきちんと注釈を入れている。たとえば「母親」を出すときに、それを血縁の母だけに限定せず、他の養護者を含め、同性カップルの代理母出産までさまざまな状況、人々を想定している。またセックスワークを話題にした際には、それがセックスワーカー差別にならないようにかなりの誌面を割いてことわりを入れている。もちろんその表現には不十分なところはないとは言えないのだろうが、画期的といってもいいくらいには、しっかりとさまざまな状況や人々を想定して言及し、言葉を尽くしていた。社会に存在する不公正、不均衡な現状に言及し、さまざまなあり方があるのに、一部だけが「普遍的」だとされ、ほかのものが抑圧・排斥されたり、そもそも想定されず、存在しないことにされてしまうことにあらがう、ということを、この文脈と読者想定でやっていることがすごいと思った。それこそいまだに「女性性」「男性性」を出生時に割り当てられた「男性」「女性」に自動的に振り分けて言及する人が多く(というか、もうその「女性性」「男性性」という語彙を排して、そこで想定される特徴や形容詞を使って語るべきだ。なんらかの特徴と、ある属性を、できるかぎり結びつけないようにすべき)、そこではトランスジェンダー、ノンバイナリー、「異性」なるもの以外の性に恋愛的または性的な興味・惹かれを抱いたり、親密な関係を構築したりするひとも、他者化・例外化を経て「正常ではない」ことになってしまう(「正常」なんてないし、そもそも男女二元論は現実的に成立していない)。そのようなところで、こうしてことばを尽くすことは、絶対に必要だし、励まされる思いだ。スピリチュアリズムを大切にするなかで「見えない」ものごとがあることを信じるのなら、現実でも、自分には「見えない」けれど、さまざまな状況やあり方で生きているひとびとが「確かに存在する」ことを、すこしでも考えに入れようとするべきだと思う。
この本は、チャクラの開きすぎ/閉じすぎを自分でチェックし、中庸になるようケアして調整できるように、というもので、書いてあることもほかのスピリチュアルな媒体/発信よりもじゅうぶん地に足がついていると感じた。よくありがちな(最近やっとのことで、修正しようと奮闘している人々もいるのだと知るようになったが)、現実から目を背けることで現状を維持し、inner peaceを守ろう(=自己保身)とする「スピリチュアリズムなるもの」のオルタナティブとして機能するスピリチュアリズムをしたたかに打ち立てており、心強さがあった。「ケア」はここ数年来関心があって学びつつ考え、また実践しているテーマなのだが、やはりケアには観察/察知とニーズの把握、試行錯誤しながらさまざまな対処を試すことが含まれているのだろう、とあらためて確認できる構成だった。ケアをそう考えるならば、ケアは痛みをともなう。手当てするべき傷や不調がどんなものなのか、どれくらい痛いのか、確かめる必要があるからだ。ケアすべきところを確かめようとするとき、その痛みや傷は、この現実で起こっていることと無関係ではいられず、かならずなんらかの影響を受けている。この社会が強いてくる「こうありなさい」に傷つけられ、こころが血を流していることも、たくさんある。決して、だれかあるひとのこころがやわらかすぎるせいで傷がつくのではない。だからこそ、この社会が誰を、何を、どんなものを抑圧し、差別し、排斥し、強制しているか、注意深く気づき、それをこばみ、よりようほうへ変えていくために、すこしでも自分のちからを注がなくてはいけない。それ自体がセルフケアのプロセスになることもあるだろう。社会と自分自身との関係への視点があるスピリチュアルな本は、(スピリチュアルな本をたくさん読んだわけではないけれど)かなりめずらしい。その視点が欠落していたり、それどころか、「決してそんなふうに考えるな、目を背けろ」(というのが、もっとやわらかく受け入れられやすい言葉に置き換えてある)という声のほうがいまだに優勢であると思う。だからこそ、そのバランスが取れているこの本は、比較的セーファーであると感じた。痛みを無視して無感覚になってやり過ごすのではなく、痛みを痛みとして感じることが、ケアという営みのはじまりであると思う。
ちなみに、チェックリストでは、いちばん乱れていると思っていた第3チャクラがいちばん整っていた。不思議すぎる。
なんでもそうだけどさ、「心=機能」とするとか、この本のように(「実際」は置いておいて)チャクラというものを想定するとか、中医学の考え方とかにみられるように、ひとの表面に出ているものを本質主義的にとらえずに、機能という動きの問題としてとらえることによって、可変性を担保できて楽になる部分ってあるよね。本質主義って地獄やと思うし。現象とそのひとは別、ということにしておくと、その隙間でふっと息をつくことができる。
今日はお昼ごはんも食べずによく仕事をした。またもや確認不足で怒られたが、きちんと理由と対処を伝えてもらえるのはありがたい。一緒に頑張ろうね、だって。
いったん休日挟みます!もうあとは来週だ!!
明日は誕生日です。もう明日なんてびっくり。誕生日祝いとして家族にプレゼントしてもらったピアスをつけて過ごそう。
あ、きのう行った最高の居酒屋のこと、恋人にボイスメッセージで話しまくったからここで書くの忘れちゃった!気が向いたらまた(2)で……。