昨日は夜に1時間半も会議をしてしまった。住んでいる地域に根付いている活動なので、引っ越したら共同代表を辞任しなくてはならず、引っ越しの件をやっと(しかし2週間に迫っている)報告したため、気疲れで心がへちゃ…… となってしまった。夜はたまたま妹とその夫さんが来ていて、お茶を飲みながら話した。「何かを敵として排除しない。何一つ欠けてはいけない。全部が循環していて、そのなかに自分もいる」「バランスを欠いて何かを大量に作ろうとしない。自然から分けてもらう」と言っていた瞳が澄み切っていた。彼は何も殺さない自然農法の畑をやっている。妹は本当に素敵な方と一緒にいるなあ。農家っていい仕事だなあ、自分の為していることを信じられること(「自分のすることを愛せ」って、どの本で読んだ台詞だったっけね、と思ったが、もしかして映画かも……?分かった、『ニュー・シネマ・パラダイス』だ!!!)が人間にとっていちばんよいことだ、と二人の生き方を見ていると感じる。それに比べるとやっぱりわたしは頭でっかちなところが全然変わっていないなあ、昔からずっと。みずからの手で人生を作っている妹が、その点でも一致するパートナーとともにあることを喜ばしく思っている。(同時に、ついつい惰性で生きてしまおうとする自分を見直さなくては、とはっとする。)
日が変わる前に寝つき、夢で疲れた身体をひきずって起きてきた。朝ごはんを食べ、ヤンノー(小豆の粉末をお湯で溶かしたもの?)を飲んで身体をあたためた。めずらしく母がお弁当を詰めてくれた。15分遅刻に収まった。
帽子をかぶったため、今日の通勤はヘッドフォンなしでいいや、と本を読むことにした。東畑開人『心はどこへ消えた?』を読み始めたらとても面白く、仕事場に到着しても読み続けて、そのまま読み終えてしまった。これは他の著書も読みたいな。昔河合隼雄や遠藤周作を好んで読んでいたときの感じを思い出した(東畑さんがお二人の名前を出していたのもある)。人が世界と触れ合うときにともにあろうとする臨床心理の現場のエピソード(一つを除いて創作だが)がなんともいえず好きなのだ。物事を解釈して、物語にしていく、そういうふしぎなちからがひとりひとりのなかにある、ということが、ひとがふたりいてはじめて分かる。そのことの味わいよ。最初のほうに書かれていた、「一緒に様子を見よう」は、過去のわたしがしてほしかったことだと思った。そう言ってほしくて、そうしてほしかった。ずっと。ただ待っていて、そばで見ていて、置いていかないで、と思い続けている。(そして、パートナーはまさにそれをしてくれる人だったから、今のわたしはこんなに安心して毎日を暮らせているのだ。)それから、体はヘルプにひらかれている、つまり体があると、ヘルプしやすいし、されやすい。場所のちからというのはそこにあるのだ、と。ともにあることがちからになるというのは、実はそういうことで、互いの体のひらかれが物事を運んでしまうことなのではないか、と思うとおもしろい。誰かの体がある、ということはこれからのいいテーマになりそう(いつも身体性をテーマに据えて生活したがる)。引っ越しして友人と生活するのってどんな感じか、とっても楽しみだな。
わくわくしつつも、いよいよ迫ってきた引っ越しが心を圧迫している。どのような順序で何をしたらいいかがまったく分からないので困惑しているし、助けを求められずに一人でやろうとしてしまう。週末に母の手が借りられないことが発覚したので、慌てて友人に大きな家具の運び出しをお願いしたら快諾してくれ、めっちゃ安心した。引っ越し、ひよわな人間一人では到底できるものではなさそうでびびっている。リストや順序を書き出せば安心するかなと思ったので、急いで部屋の中のものを思い出しながらリストを作成した。
帰りの電車では、ペギー・オドネル・へフィントン『それでも母親になるべきですか』を読み進めた。スタンリー・M・ジェームズは、「マザリング」(=母親をする)の定義が広がって、誰でも育児やケアができるようにすることが社会変革の鍵だと主張したというが、「誰が産んだか」と結びつけることなく、誰もがマザリングをする・できる社会にしていきたいよね、と思う。やはり女性にばかり出産と育児のプレッシャーがかかる(というよりは、それを「しない」ことにより、罰、白い目、非難、嘲笑…… といった諸々を一手に浴びせられる/引き受けることになる)のだろうなあ、と思うのだが、もしかしてもしかして、将来わたしもその謗りから逃れられないのか…… そうやって詰られる日が来るのか…… と浮かない気持ちに。子を持たないことを、女性だけが責められる構造よ。そもそも、「母親でない」ことは選択なのか、というところで、出産や育児をする人としない人を「選択」が分断させてしまったのでは、という部分に目を開かれた。出産や育児を「選択」と考えることで、すでに陥穽にはまっているのかもしれない。出産するかしないかは個人的な選択なのではない(今、わたし自身がその「選択肢」の前にいるような気がしていたのだが、これは個人的な問題ではないのだ!)ということを歴史的な文脈を追うことで知ることができそうで、かなり楽しみな本。ふう、3分の1まで読みました。