昨晩寝つきが悪かったせいか、朝起きるのが難しかった。起きてきて薄く切ったおいしいドライフルーツのケーキを食べた。
曇っているのに湿度が高く、服装に迷って、ベッドの上で動きが止まってしまった。捨てようかと思っている服を最後にと着てみたが、やっぱりぜんぜんしっくりこなくて、お気に入りのTシャツにデニムというかんたんな服装に着替えて出てきた。Tシャツも靴下も、夏が来るからこそもうすこし買っておきたいな。重ね着用のTシャツもないし。
仕事に行く前に本をブックポストに返しに行った。その中に、「あ、この本読み終わってなかった」があり、そこから出勤の電車ではずっと本を読んでいた。
尹雄大『聞くこと、話すこと。』を読み終えた。読んでいなかった最後の章に、以前読んでかなり引っかかっていた部分について詳細な説明があったので、読めてよかったなと思った。さんざん泣いて友人に慰めてもらったある別れも、それを何度も再生して傷つくことを、今のわたしは選んでいない。
困っている人や悲しんでいる人に理由や原因を求めるとき、私たちはその人をその人として見ていないのではないか。人として見るのであれば、手を差し伸べるだけでいい。理由や原因よりも大事なことがあるし、それらは生きているあいだにも変わっていく。
ここにいちばん、ふむ、となった。たしかに、困っている人や悲しいんでいる人に理由や原因を求めるとき、私たちはその人をその人として見ていない。本当にそうだと思う。手を差し伸べるだけ。ただそれだけなのだ。原因とか理由とかよりも、必要なのは手を差し伸べることだ。「大丈夫ですか」「どうかしましたか」と一声かけることだ。
過去は過ぎ去っており、今のことではないのに、「嫌だったはずのことを繰り返す」という形でずっと過去が今に再現される。その一貫性は都合よくこしらえられた、ひとつのストーリーだという可能性がある。
感情は発散するものだ。ところが同じような場面になると同じような苛立ちを覚えて毎回怒るとしたら、出来事に応じて発火したのではなく、ウズウズと身構え引き金が引かれるのを待っていると言える。つまり抜かりなく準備されたものであって、感情と似た別の何かではないか。
それは解決すべき謎ではなく再現することで何を私に知らせようとしているのかの問いとして向き合うべきだろう。けれども私たちはそれを無視し、否定して解決に向かおうとしてしまう。
でも、よくよく考えてほしい。あなたが誰かから解決の対象として扱われたらどんな気分になるだろう。あなたがあなたとしてではなく、常に問題として扱われる。損なわれた気持ちになるだろう。
ところが、自分が自分に対して不断にそれを行っているのに、その不当さに気づけない。
自分の声を聞かない。自分を平気で否定的に扱うとは、そういうことだ。
解決すべき「問題」として、自分のトラウマやそれによって惹起される反応を扱わない。それはただの「サイン」である。わたしは問題ではない。わたしはわたしだ。
「自分には価値がない」といったように、自身の価値を低く見積もることを当然のようにしている。それを長年かけて養い自己像にまで磨き上げている。自分が無力だと言い続けることで弱さに力を与え、その弱さで人をコントロールしようとする。今の時代においては、傷つきやすさへの共感もコントロールのひとつの手段となっている。
弱さや傷ではなく、自分自身にコミットする必要があるのだと思う。過去に甚大な傷を負ったのは紛れもない事実だ。でも、「感じている自分」と「感じたこと」は別なのだ。
ここ、すごいなと思った。自分の価値を低く見積もること、自分は無力だと言い続けることで、弱さを「武器」(よく言う言い回しよりもずっと重さと手触りのある「武器」だ)として、相手や、誰かや、自分自身をコントロールしてしまう。自分にもやった覚えがあるし、そういう言動を誰かから浴びることもある。「自分にはどうしようもない」「わたしには何もできない」という「弱さ」が、怒りとして発露したり、誰かの言動を統制、コントロール、支配するため、印籠のように使われたりすることがある。ひとの怒りって、こう考えてみるとやっぱりとても興味深い。怒りは反応であって、感情ではない。その正体は、自身の無力さ、やるせなさを感じることに耐えられない、というだけなのだ。
怒りを感じたときや、トラウマから惹起される反応に身を侵されたとき、必要なのは「なぜ自分はそうなってしまうのか」と原因を探し当てることでも、納得いく理由を説明させることでもない。自分自身に手を差し伸べること、声をかけることだ。解決する必要はない。そんな自分の隣に座ることだ。
引用部分は、スマホの文字認識機能ってここまできちんと使えるのね、楽だわあ、と思いながらコピペした。
1時間ちょっと遅刻した。仕事はぜんぜんやる気にならなかったので、何もやらなかった。明日やります。とにかくとてもとても眠かった。目がずっとしょぼしょぼで、ひさしぶりに頭がぐわんぐわんするような眠気。しかし横にはならなかった。
グッドマン『真のダイバーシティを目指して』も、出勤から仕事中にかけて2〜3章読み進められたので、まあよしとする。
あまりにも何もできなかったので、もう帰ろうと決め、1時間早く退勤した。電車が空いている。みんなも定時って18時なのかしら。
1時間早く帰宅できるって、最高!いつもは帰ったら19時15分くらいなのに、それが18時15分なのだ。19時に閉まる、サービス束のある花屋さんにも行ける。しばらく部屋にお花がない時期が続いたので(カレンダーを見たら2週間以上経っていた)、お花買って帰ろ、と花屋さんに足を運んだ。サービス束になっている黄色のアルストロメリアもいいなと思いつつ(いつも黄色い花も部屋に似合うだろうなと思うのだけど、買うに至らない)、ショーケースに入っているピンクのマムをひと目で気に入った。隣のスプレーカーネーションもめちゃくちゃ可愛かったのだけど、それでもマムを買いました。いつもピンクの花を買っている気さえする。
萼のところが襟巻きみたいでとってもラブリー。
帰宅してすぐに花を生けた。マムは保つから、次にお花を買うのは結構先かも。次はスプレーカーネーションを買いたいので、そのときまで時期が終わらないでほしい……。
もういい加減に部屋の掃除をしたくなって、掃除機をかけて、クイックルワイパーもかけ、シンクを掃除して、洗濯物を干した。掃除は身体を動かすから、何だかいい運動をしたような気がしてしまう。うっすら汗をかいた身体がベランダで風に吹かれて、いい気持ちだった。気分まですっきり、ぴかぴかだ。
夜ごはんを食べ、すこしベッドでだらだらしてから、準備をして銭湯へ。自転車に乗ると、風のやわらかさにはっとする。空に浮かんだ半月がぽやんと藍色に滲んでいた。
銭湯はわたしにとってはちょっとした贅沢なので、520円でぽっかぽかになろうと意気込んでいる。ペットボトルのお水も2本持ってくる気合い。大きくて深い浴槽にたっぷりのお湯がぶくぶくしている。家では味わえない、銭湯の醍醐味だ。湯船に入ってみると、思ったよりも身体が冷えていたことが分かる。母が骨折して湯船にお湯を張らなくなったのと、夏だからシャワーでいいか、が重なって、2週間ほどかんたんに済ませていた。足がむくんできたなと感じ、そろそろ湯船に入らなきゃと思っていたところで銭湯に来てみてよかった。冷房を仕事場でつけはじめたこともあるだろうが、まさかこんなに冷えていたとは。入ったり上がったりを繰り返して、1時間くらいかけて身体をあたためた。特に考えごとをするでもなく、ずっと同じ曲が頭に流れていた。
上がった後、化粧水を塗ったら肌がつるつるでびっくりした。届いたばかりのエキナセアクリームも塗ってみる。明日、肌の調子がよくなっているかどうか、すごく楽しみだ。
やっぱり身体がぽかぽかになると、ほぐれてめぐる感じがする。こわばった身体だったのが、やっと動くようになる。
帰ってきてベッドに寝そべったら、身体がぽかぽかでじんわりと気持ちよくて、「さいこ〜……」と声が出てしまった。さいこ〜だな。
昨日寝つきが悪かった分、今日はぐっすりと眠れるといいな。シダーウッドとゼラニウムの香りが枕もとにちょうどよく、深く息を吸い込むたびに落ち着く。マーキントンのふわふわをさわって眠る。おやすみ。