わたしがパートナーに送った文章が整理されていてよかったので、ここにも改変して乗せてみる。「わたしの文章」だと思っている節があります。すみません。惚気るの好きなんだ。それでは以下。
結局わたしが怒りを感じたポイントも、自分の「構え」みたいなくせであって、その人が悪いわけではない、というのがけっこうすとんと納得できたような気がする。自分を見ているようで嫌だったのだ、というのがきっといちばんにあるのだと思う。「嫌い」という不快な感情が引き起こされたのを相手のせいにして、自分には怒るべき正当な理由がある、とこじつけたことは否めないし、そうやって自分の不快を何とか減じよう、あるいは不快は減らなくても「不快を感じて当然だ」と自己正当化しようとしていたのだと思う。
しかし、こういうことが立て続けに起こったことで、この先もこのままのわたしでいれば、人間関係における激しい決裂が起こりつづけるのではないか…… と怖くなった。自分の「嫌い」の気持ちをごまかさず、きちんと受け止めたうえで、嫌いなまま関係していく修練を積んでいきたい、と思う。「好き」の範囲内に収めようと努めて、「好きだし、諦めたくないし、信頼しているから」関係調整の努力をする、というよりは、たとえ「嫌い」であってもうまくやっていく努力というか……。関係調整を担保するものを、私的な感情から、理性へ。そういうのを模索したいな。そのためには、自分のずるさやよわさを受け止めなきゃいけないだろうし、多大な努力が必要になると思うけど、まわりに知恵を借りつつやっていきたい。
わたしはパートナーの前でたくさん取り乱しているし、激昂しているし、大泣きしているし、いじけているし、憤っているけれど、それでもパートナーがわたしのそばにいてくれることに、(何でも許してくれるなんて傲慢なことは思わないので、安心しきることはないけど)安心していて、とってもありがたいなあ、と思っている。どんな姿を見ても、ひとの中にある本質的な美しさを見失わない、むしろずっとそこを見つめよう、掬い取ろうとするパートナーの姿勢に、深く感銘を受けているし、美しく尊いなあ、と感じる。パートナーは、いつもそういうふうに、わたしだけではなくみんなのことを見ているんだなあ。そのことに改めて深く感じ入ったし、なんて素敵なひとなんだろう、と思う。
パートナーののびのびとした明朗なところ、そしてその明るい目で、誰しもがかならず持っている「まっすぐでのびやかなよさ」を見出すところは、とてもすばらしいたからものだと思う。その明るいまなざしを自分にも向けてもらえることが嬉しいし、他の人に対してもパートナーが同じようにそうすることを、誇らしく思う。わたしものびのびとしたよいところをパートナーの前でたくさん出したいし、パートナーにもわたしと一緒にいてのびのびしてほしいなあ、と思う。人をくつろがせ、のびやかにさせ、ほっとさせる、こんなに素敵なパートナーを、萎縮させたくない。のびやかであることは決して悪いことでも、後ろめたいことでもない。パートナーのような、そしてパートナーがまわりの人に見出すような、「まっすぐでのびやかなよさ」を、今ここから排除されてしまっている人々も、より多くの時間や空間で出していけるようにしたいのだ。そのためにわたしは自分の声を使い、責任を果たしていきたい、と思っている。この社会構造に絡め取られるパートナーを後ろめたくさせたいわけではなくて、どうしたら、誰もが尊重しあい対等にともにいられる関係が、場が、社会がつくれるのかをこそ、一緒に考えていきたい。