2024.7.7

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公開:2024/7/8

パートナーに会ってきたら、なんかめちゃくちゃ元気になった!!!!!!

今週はコロナにかかってダウンしていたこともあり、そのあともなんだかへとへとで、日記も書きたくなかった。しかし、今日パートナーに会ってたくさん話したら、元気が回復した!すごい!!パートナーってバイブスが合うので、本当に助かっている。会って話すと、滞っていたものが巡るよう。そういう調子のよさが出てくる。これは持論だが、人間ってバイブスが合う人間と一緒にいると、"循環している"感じになる。もう今は「ひとと話したい!」の気持ちでいっぱいだし、日記も書きまくりたい。ほとばしっている。

勢い余って、帰り道の途中で引き返して、好きな服屋さんのセールに行った。どんだけだ。

都知事選の投開票日。期日前投票を済ませていたが、インスタでVOTEDフィルターを使って自撮りをしたものをストーリーにあげた。 VOTED FOR HUMAN RIGHTS(人権のために投票した)と、VOTED FOR FUTURE(未来のために投票した)の二つ。昨日買ったTシャツをさっそくおろしたので、自撮りしたかったのだ。わたしってわりと当然のことのように自撮りをあげるのだけど、あんまり自撮りをあげているひとって多くないかも。少なくともフォローしている人では観測数が少ない。留学時の慣習の名残かな…… とも思ったが、帰国後一時期はあげなくなっていたし、違うことがきっかけかなあ、と記憶を探ると、数年前、自撮りをしたくないと言っていたら、友人に「せっかくなら楽しまないと!」と言われたことを思い出した。それが良い意味で悔しくて、自撮りをするようになったのかもしれない。基本的にわたしの行動の動機は悔しさである。

「投票しよう」と投稿しつつ、この猛暑で投票に行くのすらしんどいよね、と思う。下手したら倒れるし、命の危険がある。そう思ったら最後、気候変動を抑止したい思いがとめどなく溢れてしまい、「わたしみたいなめんどくさがりこそ、政治で物事を動かして楽しちゃおう!」という話までしてしまった。もちろん権利とは不断の努力(このフレーズ、はじめて読んだときからマジかっこいいと思っている)であり、楽なものではないのですが……。「普段何もしなくていいように投票に行く」と明言してしまうのは理念的には問題含みだが、「普段何もしないし投票にも行かない」よりはマシだと思いたい。面倒だと思ってしまう人こそ、仕組みを変えることに力を使えば、あとは自分はそんなに頑張らなくてもいいはず。わたしは怠惰なので、本来はこんなに追い詰められながらボイコットしたりヴィーガンでいたりしたくない。法律や条例で制度や仕組みを整えることで、政府や企業など大きな規模のものが動けば、わたし一人ぽっちがしゃかりきになって実践を頑張ったり、大声でわーわー言ったりしなくたっていいのだ。しかし、大きなものを動かすには、一人ひとりがすこしずつ声をあげたり、行動を変えたりしなくちゃいけないんだなあ。近ごろは、バーンアウトしてるかも…… と思ったりするが、まあ大人なので、休み休み、社会的責任は果たしたい。仕組みを変えたらいっぺんにいろんな人が助かって、息がつけるようになるんだとしたら、そのほうがいいって思っちゃう。わたしが政治を重視してるのって、それに尽きる。一人が頑張るのは限界がある。仕組みが変わったら、自分だけじゃなく、同じような状況に置かれている他の人まで楽になる。そのほうがなんかいいじゃん、って思っている。

部屋を片付け、水まわりを掃除して、本を読んでから家を出てきた。

今日の装いは、「LOVE IS EVERYWHERE」と窓辺の版画風のイラストがプリントされたブラウンのTシャツ、ホワイトのコットンパンツに、シルバーのV字になったバレエシューズ。靴に合わせてきらきらのネイルポリッシュも塗った。そしてKAMIORI KAORIの陶器のお花とシルバーの葉っぱのピアス、ビーズの指輪、おばあちゃんの形見のパールの指輪、アメリカで買ったシルバーのバングルをつけてきた。かばんはベトナムのぽんぽんのついたアイボリーの小さい肩掛け、それからネイビーのこまかいチェックの日傘。去年の誕生日にパートナーに日傘をもらっていなかったら、今頃冗談抜きに死んでいたかもしれない…… 暑すぎる…… と思いながら駅までの道を歩いた。7月初旬でこの湿気と気温。やばすぎる。気候変動の問題、もっと主要なイシューにしたいですね。

パートナーと駅で集合。これから熊本に帰るため、すごい大荷物だった。荷物を分けて持ち(わたしは軽いスーツを任された)、さっそくデパートの地下にある、フレッシュジュースとソフトクリームのお店へ。パートナーは先にお昼をと言っていたが、わたしは「暑いもん!」と先にアイスを食べたいと主張。パートナーが笑って「アイス食べよう」と言ってくれ、わたしは「アイス、アイス」と音符でもつきそうな節回しで口ずさみつつ、スキップするみたいに歩いた。

そこは「今日行ったアイス屋さんがすごかったんだよ」と母が教えてくれたお店で、果物屋さんがやっているらしい。スタバに行くより、デパ地下のフレッシュジュースのほうが断然おいしい!というのがわたしの持論だが、今日でまたその信念を強固にした。デパ地下の果物屋さんがいちばん良いです。

桃が乗った溶けかけのソフトクリーム。

わたしは桃、パートナーはメロンのソフトクリームをめいめい頼んだ。果肉が練り込まれたソフトクリーム(凄すぎる……!)に、カットされた果物がトッピングされ、食べ進めていくと下のほうはバニラのソフトになっている。しかもワッフルコーン!フルーツの味が濃厚だし、すごくジューシー。「水分が多いので、トッピングのフルーツから食べてくださいね」と言われる。練り込まれた果肉も大きい。クオリティがめちゃくちゃ高いのに、これが450円…… ということにもびっくりする。こういうのがたまらないんだよなあ。老舗然としたお店、おいしくて安いもの。大好きです。

パートナーの家の近くにあったジョナサンが潰れて別のファミレスになっていたらしく、思い出を悼むためにジョナサンに行くか、行きつけのイタリアンに行くかでしばらく迷った。うーんと悩んだパートナーは、アイスのクオリティが高かったのに合わせて、今日はイタリアンにする、と決めてくれた。予約していない日曜日のお昼なので、30分くらいメニューを見ながら待った。

デザートを先に食べたので、お腹の具合を考えて、いつもより少なめに頼んだ。食通のサラダは、メニューを見る前から「今日は食べたいよね」と話していたので決定。このお店に行くと決めてから、食べたいものをノールックで決められるわたしたちよ。逡巡したが、パートナーが食べたがっていたライスコロッケも頼むことにした。わたしがヴィーガン(リデュースタリアンと言ってもいい)なので候補に上げなかったのだが、はずみで「今日みたいな暑い日は、塩気の効いたものが食べたいよね」と生ハムのピッツァが話題に上がり、それが一致していたのでひと盛り上がりした。普段なら、わたしからは「お肉が食べたい」という旨は言い出さない(そもそも食べたくなることは皆無に等しい)し、パートナーもわたしの思想を尊重し実践に付き合ってくれるので、一緒に食事するときはお肉は頼まない。二人とも避けていたが実は食べたかったものまで一緒だった。気が合うとか、考え方が同じとか、いろんな言い方があると思うのだが、その日の気温や湿度、直近で食べたもの、テンションや気分、味の組み合わせやバランスなどの諸条件を入力した際、演算処理の計算式が同じなので、同じ結果が出力される、みたいな感じに近い。同じものが食べたくなるというよりは、そこに至るまでに使っている枠組みが同じ。なぜそれが食べたいのか、という理由を開示し合うと、たいてい同じなのだ。食べたいものが被る人間とは安心してごはんが食べられるし、どこへだって行ける、と思える。これはパートナーだけでなく友人もそうで、友人たちと食事に行ったとき、メニュー選びでつまづくことがない。わたしは食べたいものと食べたくないものがはっきりしているため、食事にかんするバイブスは、人間づきあいのかなり大事な背骨の部分かもしれない。

ここのイタリアンはボリュームがすごい。大皿で出てくる料理にひかえめな歓声を上げるために通っている。

食通のサラダは、まろやかな酸味のつやつやのレタスたちの上に、これでもかといろいろ乗っていた。生ハム、蒸した鶏のスライス、イカ、タコ、トマトのくし切り、にんじん。色鮮やかでわあっとなる。とりわけ海鮮がぷりぷりでおいしかった。

オーバルの食器に盛られた、色とりどりのサラダ。

ライスコロッケは毎回その大きさにびっくりする。メニューを見ながら「このくらいあってすごいよね」と指で作った丸よりもずいぶん大きかった。握りこぶしくらいある。ナイフで半分に切って取り分ける。コロッケのかりかりしたところ、だあいすき!中央に入っているモッツァレラチーズがよく伸びて楽しい。パートナーは「昔から好きだったものの味がする」と言っていた。たしかに。

最後に生ハムのピザがやってきた。薄い生地にたっぷりのトマトソースとチーズ、生ハムと、さらに上からハードチーズが散りばめられていた。ハードチーズの苦味と乳酸のような酸味のまろやかさ、そして(サラダを食べたときに分かっていたが)生ハムの塩気が強くないおかげで、期待していたよりもやさしい味わいだった。がつんとした塩気がほしくて頼んだが、塩辛い感じは一切ない。これはこれで上品かつまとまりがあって美味しい。しかしやっぱり刺激がほしいので、唐辛子のオイルをたっぷりめに回しかけて食べることにした。

それらでちょうどおなかいっぱいになった。そこからはパートナーとおしゃべりタイム。わたしは昨日行ったフェスの話を、パートナーは昨日の合唱の本番の話を。

話しているうち、わたしが合唱団を辞めることにした決定的な瞬間の話になり、その場面が再生されて反芻モードに入ってしまった。突然噴火したみたいに見える、と自分でも思う。わたしは取り乱し、いかに自分が辱めを受けたかを話し、パートナーに向けたものではない怒りを露わにして、顔をゆがめた。ほとんど泣きそうだった。パートナーの顔が見られない。視線はさまよい、いろいろなものの上に止まってはすぐにそこを離れる。何度も同じことを言う。そうやってひとしきり怒っていると落ち着いてきて(辛抱強く黙って聞いていてくれるパートナーに本当に助けられている)、出来事を落ち着いて解釈できるようになった。そこで自分が口にしたことは、自分でも意図しないことだった。話していると、思いもよらなかった考えがひとりでに口を衝いて出てくることがある。話す自分と、それを聞く自分が別々になったような感覚を味わいながら、出てくる言葉に身を任せていた。

流れに沿って話していたが、要点をまとめるとつながりが見えづらい。たどり着いた結論は、分けて書いてみようと思う。

一つめは、意図しない行為の責任も引き受けなくてはいけない、ということ。人は誰しも、「そんなつもりはなかった」と弁解したくなるようなことをしてしまうことがある。しかし、その結果をも自らに引き受けることが必要であるし、それこそが生きてゆくことである。わたし自身、過去には多くの「そんなつもりはなかった」と弁解したかったことがある。しかしそれはかなわない。もう会うことのないひとには、謝ることも、自身の考えや事情を説明することもできない。分たれた道しか残されておらず、今の自分はその先に立っている。自身の行為が、思った通りに受け取ってもらえるとは限らない。想定しないようなかたちで伝わり、影響を及ぼすことがありうる。しかし、そのような事態になったとしても、「そうなった」ということは受け止め、引き受けなければいけない。そこから話をはじめることしかできない(あるいは、もうその時点ですでに、二度と話はできなくなっている)。

二つめは、ある出来事や現象において、誰が悪いということはない、ということ。ただ、ある出来事や現象の解釈に食い違いが起こっているだけなのだ。一方はそれを一大事としてとらえ、もう一方はそれを大したことがないことととらえる。そんなようなことだ。その際、異なる解釈をする者同士が、信頼を担保にして双方の解釈を提示しあい、その末に相手の解釈を(飲み込む必要はないが)理解することができるかどうか。食い違いが大きな溝となるのは、そこにもう信頼関係がなくなっているときだけだ。互いのあいだにかけた橋は、補修し続ける必要がある。補修する作業を、訂正可能性があると呼んでもいい。傷つけても謝れる。食い違っても、どこが違うか話し合える。それは、壊れた橋の一部をその都度直すことに似ている。しかし、直しても直してもだめで、橋が崩れ去ってしまった。その状態が関係の前提条件となったとき、はじめて「ある出来事や現象」というかたちで、危機が訪れるのである。自身の考えを開示できる信頼関係があれば、解釈の食い違い自体はさして問題にならない。

三つめは、人生には"決定的な瞬間"としか呼べないようなものがある、ということ。偶然がそこに導いたとしか言えないくらい、determinedな瞬間。まるで用意されていたかのように、「ああ、もうおしまいだ」と一瞬で分かる。と同時に、大きな衝撃が身体に走る。それは、ある出来事に直面した一方にとってはまったく取るに足らないことである。しかし同じ出来事は、もう一方にとって、今この瞬間からある方向へと道を決定づけるほどの強制力を持つものになる。その決定的瞬間は、訪れた本人以外にはおそらく分からない。取るに足らないあるひとつの行為、振る舞い、「そんなつもりじゃなかった」出来事は、誰かにとっては別れ以外を選ぶことができないほど、どうしようもなく耐え難い出来事になりうる。誰が悪いわけでもない。ただ、決定的な瞬間とはそういうものだ、というだけだ。

歩み去った場所に対して、やっと「こうするしかなかった」と腹の底から思えた気がする。どうにもできなかった。精いっぱいやった。誰も悪くない。自分の口から自然と出てきた言葉に、自分が納得させられた。「こんなつもりじゃなかった」「こんなはずじゃなかった」と言いながら、それでもそこから生きていくしかないのだと思う。

パートナーと切ない郷愁のようなものを分かち合いつつ、後ろには戻れないね、と話した。

カプチーノとアイスカフェラテを頼んで、ゆっくり過ごした。カプチーノは熱々で嬉しかった、ぬるいのが苦手なので……。

お店を出て、その駅で別れるのもなんなので、空港へ向かうパートナーに途中まで着いていく。山手線を半周し、乗り換え駅で降りて、改札の手前で立ち止まる。ハグしたらもう暑い季節になっている。会いたかったから会えて嬉しかったと伝えて、最後まで手を振って見送った。

帰りに好きな服屋さんのセールに気づいた。降りる駅の一つ手前。しかしそこで引き返して服屋さんに行き、試着して、使い勝手の良さそうなアイボリーのTシャツを買った。そしてまた帰り、最寄駅の本屋さんで『三体Ⅲ』の下巻を文庫で買う。棚から見つけられなかったが、店員さんに言ったら見つけてきてくれた。ギフトの図書券をありがたく使い、210円で手に入れた。

帰宅して、涼しい部屋で日記を書き、湯船に浸かった。

パートナーが熊本に無事帰ったと連絡があった。部屋の片付けと探しものをするため電話を繋ぎたいと言われ、もちろん快諾し、その間わたしも洗濯物をたたんで片付けたりした。都知事選挙の結果についてぽつりぽつりと話した。まさかだったな。冷房をつけた涼しい部屋で、暑さにやられた身体はすぐに眠くなる。気持ちよく眠った。