「冷蔵庫の女」という批評用語がある。
英雄的男性が活躍する物語において、主人公が力を発揮して敵を倒す展開につながる動機付けや、精神的成長のきっかけとして、親しい女性が殺されるプロットが多いことを批判したものである。それはそれで「なるほど確かに」と思うところがある。
ひるがえって、ここ数年、ヴィクトリア時代から1920年代くらいまでの、社会の抑圧を跳ね返して活躍した女性のことを調べたり、伝記物語にまとめる機会が続いて気が付いたことがある。彼女たちが自分の経歴を振り返るとき「世に出る前に」ごく親しい(たいていは若い)男性を亡くしたことをよく語っているのだ。
エグランタイン・ジェブは、充実した楽しい大学生活のさなかに弟を病気で亡くし、人の命ははかない、それならもっと社会に役に立つ仕事をしたいと決意する(少なくとも周囲の状況からはそう見える)。エメリン・パンクハーストも、病弱な息子を亡くすが「それでも私にはやることがある」と葬儀に出席したその足で演説に向かう。ビアトリクス・ポターが、結婚するはずだった編集者のパートナーを突然の病で亡くした話は有名で、映画『ミス・ポター』でもドラマチックに描かれている。最近「プロの美女」ことリリー・ラングトリー(上の写真)のことを調べたのだが、彼女も自分以外全員男の兄弟6人のなかで、一番親しかった唯一年下の弟を落馬事故で亡くしている。弟の死とほぼ同時期にロンドンの社交界で「発見」されることになるのだが、初めのうちは弟のための黒い喪服1着であらゆるパーティーに出ていたのでひときわ注目される。
「母として妻として姉妹として」、家庭で義務を果たさなければならないはずの相手を、不慮の事態で突然失い、彼らが生きていたら達成したかもしれない偉大な仕事を、女だけど代わりに私がやる、あるいはのちのち振り返ったらそうなっていたと考える。これは女性が当時の社会的慣習に反した振る舞いをするときに使う口実という面もあったのだろう。「女性伝記のストーリーのパターン」が当時すでに確立していて、彼女たちもそれを自分の経歴にあてはめて語り直してきたのかもしれない。
100年前の彼女たちには人生のプロットデバイスとして「冷蔵庫の少年」が必要だった。今の女性には不可欠なものではないはずだ。