絵になる線

murasaki
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「絵になる線」というものがあるという。これは、青山塾という場独特の考えた方なのかもしれない。デッサンや、漫画のネームのように柔らかい線をいくつも重ねて全体像を整えていくような描き方ではなく、一本の線を強く、覚悟を持って引く。描くものを観察するのと同じくらいのスピードで。できる限り消しゴムや練り消しで修正は行わず、引き始めた線をそのまま生かすように意識する。そうすると、ただの鉛筆線の素描でも、額縁に入れて壁に飾っておきたくなるような「絵になる線」になるというのだ。

はじめは、授業のなかでこの話をされてもあまりピンと来なかった。美大でデッサンの勉強をしてきたような人の中では戸惑っているような人もいた。けれど、静物やモデルをドローイングする授業で、ホワイトボードに貼られた生徒の絵に対して講師がコメントするのを聞いていると、なんとなくその感覚がわかってくる。強い線で描かれたドローイングは、たとえバランスが崩れていようとも、途中で終わってしまっていたとしても、堂々としていて見応えがある。いつくも線を重ねたような描き方だと、下書きのような印象になるが、途中で修正がきくぶん、"正しい"形をとらなくてはもいう気持ちも強くなるが、思い切って一本の線を引き切ることで、線の少しのぶれやゆがみが生じて、その部分に個性が宿っているように見えるのだ。

実践するのはなかなか難しい。授業では人物の他に自転車なんかを描く機会があったが、その複雑や形を前にどこから線を引きはじめればよいのか見当がつかない。さらに、実物を前にすると「自転車のタイヤは正円で、中心の歯車の部分に向けて針金状の細い棒が通っている」というような先入観が邪魔をする。その先入観で手が勝手に動き出さないように、理性を持って手を制御しなくてはならない。見たままをそのまま紙に写せるように、誠実に。力加減や線の濃度にも気を配る必要があって、私は元来筆圧か弱いのでH6とかH7とかの芯がやわらかい鉛筆を使うようにしていた。

授業ではそれぞれ見る角度は違うものの、同じものをクラスメイト全員で描く。それでも、個性が出るんだから不思議である。言葉にはしづらいけれど線の太さや濃さ、象どるときのくせみたいなものがドローイングには現れていて、授業後半になればドローイング一つを見ても誰が描いたものかだいたいわかるようになる。

ドローイングだけの、でも強い絵というのに憧れがある。私はどちらかといえば主線はなしに面で描くようなやりかたで描く方が多いのだが、もっとドローイングをやっていきたいと思っている。塾を卒業してしまうと実物をじっくりみてドローイングをするような機会は減ってしまっていて、この文章を書きながらもっと練習しなくてはと考えている。