最近の不摂生が明らかに祟っておなかが痛い。
祟りをする主体って、祟られている側から知覚されていることあるのかしら…?「菅原道真の祟りじゃ!」みたいなやつって、実際には菅原道真と嫌なことに因果関係がないようにおもうのですが…。
あぁ、でも、発話しているやつは、菅原道真に悪いことをした、という自覚があるわけで、祟られてもしゃあないメンタルなのか。そういうことかもしれない。
不摂生により、祟られてもしゃあない。
ーーーー
絶望させようとする情報の方が多いな、と感じることがあるんだが、たぶん、絶望側の情報にばっかり目がいっている側面もあるんですよね。
こうやって、思いついたことだけを書きなぐる文章をいつまで続けるのか、とは思う。出来れば、これを狂った量出して、そこから一部を抜き出し、誰かに理解してもらえるようにするのが、まともにやれる方法な気がしてしまう。あぁ、狂った量を出すためには習慣の力しかないんだよな。ぼくにはできるか。まぁ、やればいいんじゃないですか?一日一万歩歩くことすらも出来ないけれど。一日一万文字書くことはできるのか。いや、誰も何も止めてこなければ別にできるんじゃないか?とお思いのそこのあなた!人間の、いや少なくともぼくのしょぼさをなめてはいけませんねぇ。何言ってるんだ。
家から歩いて行ける素敵なコーヒー屋さんに今日は行きたいんですよ。そんで、そろそろ出かけてもちょうど開店時間にいけそうだから、出かける準備をいったんします。出かけた先で書く文章は、家で書いている文章とは変わってくる。この景色には誘惑が多すぎる。では、いったんさようなら。
-----
上坂あゆ美さんのPodcastを聴きながら、ほぼ葉桜になった並木を歩く。新宿御苑で、桜の種類が沢山あることをやっと体感的に理解したから、あれはどの桜かしらと思いながら歩くことができるようになった。環境から与えられる刺激を認知しているので、知覚できるものが増えることは豊かなことだ。選択肢が多いように思う。選択肢が多ければ良いのか、というのは整理しておきたい問題で、どうでもいい領域では選択肢を絞ることも必要なんじゃないか、とかも思う。
文章を書いて生きている人、たぶん、出さなきゃいけない情報と、そうではない情報を整理するのがうまいんだろうな、とか妄想する。
Podcastを聴いたことで、書きたいことが増える。やっぱり、ぼくの場合は、外側と出会わないと何にもならなさそうと思えてきた。
いくつか、キーワードだけ先に書きなぐる。オタクになれなかったコンプレックス。インターネットでの強いつながりと、その環境におけるフィジカルでの価値。エンターテインメントにおける内輪ノリがどこへ行ったか。
ーーーー
インターネットは、つながりを強化する装置らしい、というのが、東浩紀の『弱いつながり』を読んで記憶しているところ。確かに、行きかう人たちの中で、どの人をウォッチするかを選ぶ、なんてフィジカル空間では相当ありえなさそう。直観的にも違和感はない。
*正直、『弱いつながり』において、相当に議論されているので、ぼくが書く意味なんて外部的にはないのだが、ぼくが書きたいという1点において、内部的に意味があります。そして、以降で書いている文章は、ぼくが誤解をしながら書いているものなので、良ければ『弱いつながり』を読んでもらいたい。面白かったので。それに、学術的、というよりもエッセイ的な読み味なので、さらっと読みやすいと思う。
バーで働くことになった。この前まで、経営コンサルティングの業界にいた。新卒からその会社にいたので、ぼくは仕事といったらそれしか知らない。
プレオープンで1日働いてみた。自分の気の利かなさ、振る舞いの拙さ、肌の弱さなどを実感した(普通に使われている食器洗い洗剤は、ぼくの手を痛めてくる)。プレオープンだったので、ある程度見知った人が来ていた。それでも、ぼくは彼らのことは何も知らない。彼らも、ぼくのことをあんまり知らない。
そのバーは、人と人が出逢いつながることを、通常のバーよりもおそらく強く求めている。つながりを強化する装置であるという点で、多少インターネット的ではあるんだと思う。 が、その一方で、フィジカルでの偶然性、がその場において実現することが理想なんだと(おそらく)思う。(そう理解、あるいは誤解したとき、)そうあるために、ぼくに何ができるか。
正直、これまでの人生においてそういった偶然性に対して適切な振る舞いを出来た記憶がない。 そのため、アレルギー的に避けてきたことの方が多い。大学生の頃にも、その形質のお蔭で、3年以上ずっと仲が良くない(関わってもいないのに)人を生み出してしまっていた。ぼくはそもそも非常に閉じ気味の、インターネット的性質の人間なのだ。
ただ、インターネットにはなれなかった。インターネットに入門するには、熱量がいる。オタクである必要がある。高校生のころのぼくは、中学校の終わりになんか焦って買ってもらってしまったガラケーを1年くらい(?)使い、お金を無駄にしている自覚はありながらも親と交渉してやっと買ってもらったスマホで、ニコニコ動画のゲーム実況や、ボーカロイドの歌ってみたを視聴していた。こうやって書くと、どう考えてもオタク的素養は十分にあるんだが、そのころから今に至るまで、何か(ニコニコ動画や、アニメやゲーム、あるいは他の何か名指しできるもの)に耽溺できたか、といわれると強く疑問が残る。インターネット、あるいはオタクになり切れなかったぼくは、今も中途半端に生きている。
人と人が出逢うとき、強いつながりのためには、それぞれの自己を開陳するターンが必要になる。だから、フォローするかどうかを考えるときはプロフィールを見るし、その人が公開している動画を見るし、まず職業を聞き、ご趣味を聞くのだ。
ぼくはいま、無職からバーのスタッフにクラスチェンジし、何がしたいのかもわからず、文章を書き、ギターを練習し、歌を作っている。それがなんなんだ。この人間と楽しく話せそうなことってなんなんですか?
仲の良い友人と話すとき、自分の中に、これまでの蓄積が何もないと思ってしまうことがある。熱中の経験の不足を、実感する。好きなアニメも映画もアーティストもゲームも、聞かれたら困る。大勢の人と共有できる記憶だとは思わないから。これでは、説明書がないのと一緒だ。それに、説明書がなくても遊べるほど、UX(ユーザー体験)が優れているわけでもない。初対面の人とのコミュニケーションで情報を開示せずに話す方法も巧じゃない。
こうなってきたとき、ぼくが抱えている、「説明書もないが、UXもよくない」を解決する方向に議論を進めたくなるが、いや待てよと思う。
この文章を書き始めた動機は何だっけ?いったん立ち戻ることができるのが、文章の良いところかもしれない。(一方で、フローのまま、熱量のまま書いていけよ、そっちの方がいいよ、という気持ちもある。)
そもそもは、「もし、インターネットが強いつながりを作る装置なのだとしたら、フィジカル的にたまたま出会える場所って貴重だよね、たぶん」を主張したかったらしい。
うーん、そうだね、くらいかもしれない。問い、あるいは主張が変容したことを感じる。今この段階で改めて書くとしたら何になるだろうか。
「フィジカル的に出会える場所があるとして、あなた(ぼく)は、その貴重さを如何に活用できるか」だろうか。うーん、少し違うかもしれない。活用法に行っている、というよりは、活用する下地としてのぼくの性質・抱えている問題を整理しようとしている。
割といつもこの考え方に行きついてしまうな。自分の中に何か問題があって、それを修正しようとする傾向がある。それ自体は悪いことじゃないんだけど、広がりがあんまりないんだよな。予測できる。つまらない。だって、説明書がない問題は、「説明書が作れるように、プロフィールを整理しましょう」になっちゃうし、UXがよくない問題は、「UXを改善する行動をしましょう」で、今すぐ何か行動ができるわけじゃない。たぶん、経験をもとに磨いていくのが原始的だけど効果的な方法だから、うだうだ言わずに動け、になるんだよな。
こうなると、ここからやっと悪巧みの話にいけるってわけ。ぼくは今、強いつながりも弱いつながりもどちらも欲している。そして、誰かが乗ってきてくれる楽しそうな話を沢山作っておきたい、そんで、出来そうなやつは自分で始めちゃって、後から誰かが乗ってきてくれればいい、と思っている。
オッケー、いい感じに前向きになってきた。前向きになるために、これだけの文字数が必要かもしれない、ってのは非常に収穫で、覚悟が決まってくるよな。
そんじゃあ、悪巧みのターンに移行しよう。下で書いてる、「ふざけて話すことって、めっちゃ真剣かも」についても描きたいんだけど、いったんお手洗いに行こう。そうします。
ーーーー
ふざけて話す、というのがもしかしたらすごく真剣で高尚なやり取りかもしれない。初対面の人と話す機会では、ふざけて話すことは出来ない。それぞれのノリ、何を面白いと感じるか、どういう属性でふざけていられるか、を長い時間かけて交換しないとぼくには難しい。そう考えると、陽キャと呼ばれる人たちがそれが上手いように見えるのは、そのノリを表面化させていて、そのノリの中であれば上手くやれる可能性が高いことを表に出しているからではないか。あぁ、これも面白いね、ぜひちゃんと書いてほしい。
ーーーー(ごめん、書きたいことが変わることがたくさんあるね。でもそういうものだからね。読みにくくてごめんね未来の俺)
書く場所が散らかってきている感じがある。書いたものを人に見せたい気持ちはあるんだが、こうやってたまにたくさんの文字を書きたいときにどうしていいかわからない。人に見てもらうためには、みたいな手法のことをどうしても考えずにはいられない。一時期は、それを捨て去るための方法として、Notionに日記を書いて、ある期間Twitterにアップロードしていた。わざわざアップロードする、という行為が、「人に見てもらうための手法」を意識させてしまう部分がどうしてもあって、辞めてしまった。(いや、なんとなく辞めただけで、別に意味なんてなくたっていいよ)
他にも、一応noteに文章を書いたりしている。あれも、ここまで書いてきたような、雑多なものを基本的には書いていたんだけれども、あの場所も、効率とか、手法を意識せずにはいられない。ポートフォリオみたいに見える。うーん、文章を売りに行くならありなんだな、ということを、体感的に理解できて来た気がする。本当は、プラットフォームのことなんて何も気にせずに、強く自分で選んでいきたいんだけど、続けているとどうしてもそんな小さなことが気になってくるんだな。だから場所って大事なんだな。バーバーショップが社交場になるのも納得だよ。
まぁ、適材適所的なことなんだろう。今パッと考えると、Notionには、本当に自分のメモと日記を書けるし、noteには、たくさんの人にどうしても伝えたい部分を整形して書けばいいし、ここには、本当に垂れ流せばいい。(それはそれで、静かなインターネットって名前にそぐわない感じすらあるんだけど、まぁ仕方ない。)
自分でも読みにくいような文章を、沢山書くなよ、という向きもあるだろうが、それは仕方ない。自分でも読みにくい文章を、ぱたぱたと書いていくことでつく力も、あるにはあるでしょう。それが効率的でないとしても知るもんか。きれいな文章を書くのは大変なんだよ。それをやる力がある人がそれをやってください。とりあえずパソコンに向かってこうやってタイピングする時間を増やすことから始めないと厳しいんだ。よく考えれば、昔から何かうまくいくときは量の論理に頼ったときだった。そういう成功体験に、いったんはしがみついてみてもいい。話したいことは沢山あるし、何回話したっていいし、あんまりわかりやすくなくたっていい。誰かに知ってほしくはあるけれど、元気だったらでいいし、美味しいところだけ食べてもらえばいい。
なんだろうな、自分という食べ物があったとして、収穫したばっかりの状態なのか、それを一応食べられる状態にしたものなのか、料理なのか、みたいな話でさ。とりあえず収穫はしてくるわ、みたいな。たくさん採れたらいつか文明が育って美味しい料理になるでしょう、みたいな。そういう甘い楽観を、しています。ただし、その甘い楽観のために、時計を早回しできるように、たくさんの文量を書けるといいな、とは思う。そう思う。テーマくらいはあった方がいい。がんばれ。
ーーーー
さぁ、やっとこさ悪巧みの話をしよう。無邪気に、いったんやりたいことを書き出してみて、それを実現するに必要なものを考えよう。自分ひとりでできそうなら、やってみて、それをひそやかに公開しよう。
①青空文庫の朗読をやってみたいんだった。これはすぐにできるね。青空文庫もそこまでたくさん読んだわけではないんだが、渡辺温先生の『可哀想な姉』という作品が、とても揺さぶられてしまったことは覚えている。友人が紹介してくれた作品だ。
朗読して何になるんだ、は知りません。そんな話はしていないので…
②コンタクトレンズを買いたい。中学生くらいの頃から眼鏡で、だけどずっとそこまで目は悪くない。できればカラコンが買ってみたいんだけど、そもそもコンタクトの度がわからないから買えてない。あ~、一応メガネの度から換算できるか…?そこまで目が悪くない結果、メガネの度数と変えなくて良さそうなので、通販で買います。こうやってちゃんと書かなかったら動けなかったね。そう思うね。ありがとうございます。
③人のポートレート撮りたいんだよね。ちゃんとしたカメラなんて、iPhoneくらいしか持っていないんだけど。まぁ、これも自分で撮って試してみるか。撮る前段階までだったら練習できるもんね。場所探して、構図考えて、試しに撮ってみることはできるもんな。やってみよう。
④服を買った動画とりたいね。というか、これは普通に夏服が買いたいだけなんだけど。一回家に帰って、夏の服装について考えてから、ZARAに行って足りない部分を買おうね。(動画は撮っても撮らなくてもいいよ)
さぁ、悪巧みの話はいったん終えてもいいかもしれない。今日の予定が決まってきたから。やりたいことは思っているよりもあるかもしれなくて、それらを適度に日にさらす必要があるな。考えずに生活することができてしまうから…。
ここに書く必要があるかどうかはわからないんですけど、いろんなところで試せばいいからね。
ぼくは自分を許すための文章をたくさん書かないといけない。今は。具体的に、本当に許してもいいんだということを、出力して入力するループを回さないといけない。