子供がほしいことについて

mznmku
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公開:2025/10/11

子供がほしい。

中学生の頃、初めて交際を経験した時から、明確にそう思っていた。

その時の交際相手は同性だったので、かなり色んなことが進歩しないとその相手との子供を持つことは難しかったと思うが、大人になる頃には何とかなってるっしょと、特に悲観したりすることもなく、この人との子供がいたらさぞかしかわいいだろうなぁとただ思っていた。まぁそこから15年経過した今でも、同性同士で子供を作る技術どころか、同性婚すら法的に定められていないんですけどね……。

ともかく、好きな人との子供がほしいという思いは、その後交際相手が変わっても、私の中に変わらずあり続けていた。

多分当時のそれは、行き過ぎた同化願望でもあったと思う。当時の自分は、健康になりつつある今と比べて自他境界が極めて曖昧で、好きな相手≒愛着対象と一体化したいという思いも強かった。

自分と好きな人との遺伝子を混ぜた存在はさぞかわいかろう、という思い自体は、今も変わっていない。最近の言い方で言えば、ミームよりもジーンに重きを置いているということになるだろう。

生まれてこなければよかったと思っていた期間の長かった人生だが、反出生主義に転び切らなかったのは、自分のその欲求を否定できなかったからに他ならない。どこから来るのかを幾ら考えても分からない、根源的な欲求であるかのようにさえ感じられるそれは、私の中にずっとあり続けている。

今はその欲求は多少姿を変えて、私が合流した、夫やその一族の群れにニューメンバーを増やしたいという思いを加えた形で存在している。夫一族の文化を私はとても好ましく思っているのだが、この群れに新しく子供が生まれる気配は今のところ全然ないようだ。この文化が後世に引き継がれないのは勿体無い、と感じてしまう。文化の構成員をこの世に一人でも増やしたい。文化が成熟し切っているがために生殖という野蛮な営みをやめたようにすら見えるので、自分のような野蛮な血を入れてよいものか、とも冗談半分で思うが。

現状、夫とは円満な婚姻関係にあり、持ち家も買ったし、仕事も順調で産休育休も取ろうと思えば取れる。凍結胚も既に準備済みだ。貯金が充分とはいえないのと、自分がもう少しキャリアを積んでからにしたいという理由で、挙児は来年度いっぱい働いてからにしようということになっていたが、正直じれったい。最低限必要な条件が既に揃っている中で動かずに、時が過ぎるのを待ち続けるのは、性に合わない。次へ、次へと進みたくなる。長い間他者のケアを担って生きてきたので、他者のことで頭がいっぱいの状態でないと「暇だ」と感じる仕様になっているらしいのもあるだろう。

それに、昨年末に過労からメニエール病を発症してしまい、身体にガタが来るような時期に差し掛かりつつあることを実感してしまった。来年、再来年も心身の状態が今と変わらないと無邪気に信じていられる状況ではなくなった。一分一秒でも自分が若く健康なうちに、と気が急いている。

それから、自分もその親も、親が歳を重ねてからの子供だったために、自分は祖父母を早くに亡くした。できれば自分の子供には、夫の両親や親族と少しでも長く関わってほしいと焦る。私に良くしてくれているあの人たちが、ほぼ確実に私よりも先にいなくなってしまうことを考えて、悲しくなることが度々ある。


ここまで書いてみて思ったが、子供を持つことに対する思い入れが強すぎる気がする。

私の尊敬する友人は、挙児の動機について「自分の身体の機能を試してみたいから」と言っていた。また、私が「子供を生むのをエゴでなくするにはどうしたらいいのだろう」と悩みを口にしたら、「子供を生むことってすべからくエゴじゃない? 反出生主義なの?」と言われた。反出生主義者なのは事実です、半分くらいですが。

私の挙児への思い入れの強さは、いつか子供自身への重圧へと変わる危険性がある。それについては、今後育児に着手したら常に危惧し続けなければならないだろう。先述の友人みたいにとまでは言わないが、私もみんなみたいにもっと、よく耳にするような「好きな人との子を望むのは当たり前」「結婚したら子供を持つものだから」「子供が好きだから」「親孝行のためめ」とかいう至極普通の動機で挙児を希望したかった。

今のところ、子供の人生に望むことといえば、親となる私と絶縁したいと思わずに済むこと、死にたいと思わずに済むこと、くらいだ。こうなってほしいとかは、特にない。私たちの今の暮らしがネガティブな意味で一変するような特徴をもって生まれてきたらどうしようという恐れは人並みにあるが、家庭内で家族成員のケアを行うことは、物心ついてからずっとそうとは知らずに行ってきたことなので、それ自体に全く馴染まないということはないだろう。

不安は尽きないが、やっていくしかない。それは人生全般にいえることでもあるし、考えうる限りのあらゆる困難に置かれている家族を職場で目にするので、逆にハードルは下がったともいえる。「完璧な親なんていない」という言葉は、おそらく私の母親が思っていたことなので、私が最も嫌いな言葉のうちの一つであるが、「完璧でなければならない」というプレッシャーがむしろ家庭環境の悪化に寄与することはよく知っている。それに、どんな状況でも皆どうにかして生きている。それはすごいことだ。どうにかすれば、ある程度どんな状況でも生きていくことはできると知っていることは強みだ。肩の力を抜いてくれる。

気楽にやっていきたい。既に凍結胚として存在している我が子の顔を見る日を楽しみにしている。

@mznmku
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