夫の話をする

mznmku
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公開:2025/10/11

私はずっと、同じく親がアレだった人間にしか我々のような存在は理解されない、まず存在すら認識してもらえないものだと思って生きてきた。実際、親や家が別にアレじゃなかった人には苦労を透明化されるばかりで、その度に傷付き辟易していた。だから、私よりずっと家や世間でひどい目に遭いながら生き抜いてきたパートナーからどれだけDVを受けようと、それを理由に別れようとは思えなかった。この人がこのようにあるのは家がアレなことに起因しており、それは私と相互に深く理解し合えることと表裏一体であるから、そういう人としかパートナーになれないのは仕方ない、自分の生まれを恨むしかない、と考えていたからだ。同じ目に遭っていなくても我々の境遇を理解することのできる人がこの世に一人もいないとまでは言わないが、そもそも希少種であり、そのような人徳のある人が私のような人間を気にかけることがあるとはつゆほどにも思わなかったので、初めからそのような可能性には全く期待していなかった。

それから、私は自身が症状の固定された重度のオタクであるために、かなりオタクの人間とでなければ親交を深めることすらできない。況んやパートナーをや、である。でも、年齢を重ねるにつれ徐々に、なんかお洒落な雰囲気のものにも興味が出てきた。どうせならパートナーとなんかお洒落でイケてる感じのこともしてみたい! しかし、自分と親しくなれるような同じく重度のオタクにそれを求めるのは酷であり、これらが両立することはまずないと考えていた。そもそもそんな人物は希少種であり、〜(上に同じ)。私は、交際相手に求める要素として、オタクであることかイケてる感じのものを解することか、どちらを選ぶか天秤にかけたら迷いなく前者を選ぶ。魂にオタクが刻み込まれていて戻らないので、これはもう仕方ない。

夫は、これらの私が求める矛盾した要素をいずれも両方兼ね備えている。そういう人間、いるんだ。その時点でまず驚きなのだが、その上何故だか自分を好いてくれて、結婚にまで至った。正直なところ、あまりにも私に都合が良すぎるため、本気で未だに実在を疑う。人生が辛すぎて創り出してしまった架空の人物なのではないかと怖くなる。それか、「この人はいつ正気に戻るんだろうか」と思い続けている。正直ご乱心だとしか思えない。どうして、こんな人が自分を? いつの日か突然、「なんで自分はこんなことしてたんだろう」と目が覚める時が来るのではないか。

真っ当な人に好きになってもらうためには、もっとお行儀良くしていなければならないのだと思っていた。自分が完全に思いのまま大暴れしている姿を見ても退かず、その上そこを好きになってもらえる、そんな都合の良いことがあるとは。夫は私が毎回会う度に突飛な行動に出るのを見て、「『次はどんなことをしてくれるんだろう』と楽しみに思っていた」、と言うのだ! ちなみに具体的には、ワンピースの裾を捲って川に入り全力でカニを探したりしていた。そんなことして好きになってもらえることあるんだ。

私自身はパンセクシュアルなのだが、ほとんどシスヘテロ男性からしかコミットが返ってこないので、シスヘテロ男性とばかり交際してきた。前述の前パートナーとなかなか別れられなかったのは、そのクィア性とジェンダー観の合致が貴重なものであると分かっていたから、というのもある。一定程度の社会適応を成し遂げている一般的なシスヘテロ男性は、大概がマジョリティのジェンダー観を備えているだろうことは想像に難くなかった。だから、前パートナーの社会適応度があまり高くなくても気にならなかった。それも私の求めるものと表裏一体であると考えていたからだ。その考え自体は間違っていなかったと思う。だが夫からは、生まれてからずっとシスヘテロ男性として生きてきて、客観的に見ても全く問題のないレベルで社会適応を果たしているにも関わらず、私のジェンダー観に引っかかる言動はほぼほぼ聞かれなかった。またこれは前述のオタクのくだりとも重なるが、夫は重度のオタクであるにもかかわらず、私なぞよりもよほど高い社会性を兼ね備えている。具体的には、新卒から10年同じ会社に勤め上げたり、マンションの理事を務められたりするくらいには。マンションの理事って、別に組織をやりたくて集まっているのではなく、たまたまそこに住んでいるだけであって仕方なくやっているだけの烏合の衆(言葉が悪い)なんですよね、当たり前ですが。なのでそのあまりの非合理さに私は初回に出席して無理だと悟り、以降は夫に任せきりなのだ。正直、オタク度が自分と近ければ多少社会性がアレでもいいやと思っていた節がある。自分自身が社会性という面に関してはかなりイマイチであるし。夫、本当になんなんだ。

夫のジェンダー観には、交際に至る前から信用を置いていた。何故なら、信用できる百合のオタクだったからだ。百合というジャンルほど、その人のジェンダー観がつまびらかになるものもないと私は思う。百合に関して意見の合わない人間とは、ジェンダー観が合わないのだ。夫とは百合のオタク同士として知り合っている。夫は敬虔な百合のオタクだった。百合のオタクとして信用していたから、リアルでの交流も始まったのだった。両想い確定後に決定的なジェンダー観の違いが露わになれば、さぞかし悲惨なことだろう。それを、事前に充分確認できていたのは僥倖だった。ありがとう、百合というジャンル。ジェンダー観の合うパートナーを見つけるなら、自分が信用している百合のオタクから探すといいだろう。極論かもしれないが、信憑性は一定あるように思う。百合に関する信念は合致するのにパートナーに対しては全くそれが発揮されない人とかがいたらごめんなさい。

夫のジェンダー観が何故(私から見て)真っ当なのか聞いてみると、女性の同胞と平等に育てられたことと、オタクであるが故に常にメインストリームからは外れたところにいるというマイノリティ性を感じながら育ってきたことが大きいようだ。昔から男性ホモソーシャルのノリに乗れなかったらしい。最近も、仲の良い同年代同性の友人と遊んだ時に、「眠いね」となって二人して昼寝をした回があったらしい。30代男性の遊び方として、あまりに平和すぎて思わずにっこりしてしまった。かなり好きなエピソードである。


夫について語りたいことはまだまだ山ほどあるが、記事として形にするために一度ここで筆を置く。また語らせてください。

@mznmku
140字より少し長い