100分で名著の偶然性、アイロニー、連帯の二章まで 二章までには連帯はまだ出てこない
終極の言語(ファイナルヴォキャブラリー)を持たないこと。本などに絶えず影響されるように言葉も偶然性であること。私自身も偶然性の産物であること。
公私は統一されるべきではないこと。バザールとクラブの比喩。クラブの自分を愛せる空間が少ない今の時代にどう行動するのがよいのだろうか?日記はやはり一つの答えな気がする。Twitterがかつてはその受け皿にもなっていた気がする。今は地震などが起きた時の公の情報交換の場として当然の様に使われていることからも分かるように確実に私事を「つぶやく」場から公的な空間に変化している。これからはXでPostするという方が時代に合っているのかもしれない。アイロニーの観点からすればその方がいいのかもしれない。TwitterとTweetも終極の言語ではないのだから。静かなインターネットはここを再度狙っているのかなとも思った。頑張って欲しい。
インカネーションについて
ヨハネによる福音書 1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「ことばは人となった」という言葉です。ここの「人」は元々「肉」と訳されています。
私たちはこれまで、「ことば」ロゴスについて見てきました。この方は世の初めからおり、この方は世にある全てのものを造られ、この方に命があり、この方が人の光であった、とあります。そして、この神が今、人となった、あるいは肉体を取った、という驚くべき発言です。
イエス・キリストは神であられるのに、人となってくださった、ということです。
https://www.logos-ministries.org/new_b/jn1_14-18.html
言葉によって社会は受肉(インカネーション)するという理論は説得力がある。しかし公の場での言葉が抑制される現代では公の場である社会も抑制されすぎて歪んでしまうのではないでしょうか?そのために?それを回避するために新たな言語としての平面、もしくはディスプレイ上の疑似空間をつかった何かで社会を受肉させる手立てを探す方法がある気がする。と思ったが詩でもいい気がする。詩がまた力を取り戻せば何かが変わる気がする。ロマン主義は懐古的になるのでロマンチックな詩ではなく。