8. 日記 過ぎてゆく

ながれ
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3月後半から4月の頭にかけてのこの時期は、時間の進みが早いような気がする。ともすると家に一週間篭っていることもあるから尚更だ。それは季節の変わり目だからという理由だけではないと思う。

みなが、桜の木を探している。もう咲きそう、見頃はいつか、お花見の予定を立てよう。そんな話をしている。桜という自分以外の生命の変化、一挙一動を気にして、それを予定に組み込んだり、桜の木がある場所を調べてそこを目指して集まったりする。

西陽をバックに撮ったアオリの構図の桜の写真。黄色い小花が咲く芝生にどっしりと太い幹が根付く立派な桜。左手前に桜の花びらが一枚落ちている。

普段、家に花を飾ったり、植物の世話をしたりする人は、私が感じるような季節の変化をより頻繁に感じているかもしれない。

桜の特別なところは、生えている場所に公共性があるところだと思う。庭に限らず土手、並木、公園など人の往来があるところにたくさん植っている。だからみな、一様に気にして、共有するのだ。

私はお花見が大好きだ。先日もパートナーが作ってくれたお弁当を携えて、今年2回目になるお花見に出かけた。この街にお花見スポットは何ヶ所かあるが、私が好きなのは土手の緑地公園だった。緑と木と子供と犬が多く、風が吹き抜けるので気持ちがいい。それに、座るなら芝生の上がいい。

土手沿いの駐車場は満車だったので近くのコインパーキングに駐車し、土手へ向かった。公園に入るとすぐに春の草と土の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。春を身体に染み渡らせるために。こうしないと、本当に春が来たとは言えない。それは所詮人伝ての春なのである。

まだ花が散るほどではなく、日当たりによっては咲いていない木もあった。人の多い屋台のあたりで、苺大福を買った。少し離れたところに立派に咲いている桜の木を見つけて、そこでシートとお弁当を広げることにした。おあつらえ向きに低い枝が芝生の地面のすぐそばまで伸びていて、花の隣で食べられそうだった。

敷物は、私が小学生か、それより前から使っているキティーちゃんのピンクの小さなシートだ。役目を終えて押し入れの奥に仕舞われていたところを、一昨年くらいから私に再び引っ張り出されて持ち運ばれている。丈夫なもんだ。

お腹が減っていたので、おかかの混ぜご飯の巨大なおにぎりを頬張りながら、塩鮭がメインのお弁当をいただいた。傾き始めている西陽が当たる場所でぽかぽかしながら、風を感じ、愛する人と美味しいご飯を食べる。贅沢だ。

気分が良くなって、藤井風の好きな曲を選んで詰めたプレイリストを流した。「花」という曲が好きで最近よく聞いている。彼の、脱力しているけれどもよくコントロールされた優しい低音が、この陽気にぴったりだった。年をとってもこうやってお花見しようねという話をした。

お腹がいっぱいになり、少し歩いて帰ることにした。土手の対岸へ渡り、ぐるっと回って引き返すルートだ。川は連日の雨で水量が少し増えているように見えた。

日当たりがいいのか、対岸の方が桜がよく咲いていて、遠回りして良かったと嬉しくなった。遊具の横の道を通った時、シーソーに乗りながら、甲高い声でてんどんまんの歌(♩てんてんどんどん てんどんどん…)をシャウトしている子供がいて印象に残った。あれ、耳に残るよなあ。

そういえば今書いていて思い出したが、今年1回目の花見の時も、猫ミームの曲(♩チピチピチャパチャパ…)を大声で歌いながら走り回っている小さな子供がいた。Xをしている年齢ではないのでYouTubeで見たのだろうか。それとも学校で流行っているとか?いずれにせよ、これも耳に残る歌だ。

少し歩いて、駐車場に戻ってその日のお花見はおしまい。私に春が来た。チューリップもネモフィラもバラもアジサイもヒマワリもコスモスもツバキもぜーんぶ見たい。でも桜はやっぱり特別だ。

@nagare
ながれです。 ときどき文章を書きます。