あなたが幸せでよかった
例えばよく晴れた日、今日のように美術館で絵画を鑑賞し、海の見えるカフェでコーヒーとショートケーキを食べる午後。そういう客観的に見て素敵な時間を過ごしているときにも、心に無視できない翳りや疲れがあるのを、「自分は幸せだ」と口に出すことで、背後に追いやろうとする行為について。
それは抑圧になってしまうと、私は思った。幸せだ、っていうのはもっと心のうちから溢れて口からぽろっと出てしまうような、にじみでてくるような、それでいて強烈な確信なんじゃないか。
幸せだって心から思わないなら、幸せ(と世間的に思われている何か)にわざわざ自分から寄せに行かなくてもいいと思う。幸せじゃなくたっていい。あるがままがあるだけだ。ハレとケなら圧倒的にケの暮らしの方が長い。言いかえれば、どれだけ不幸だろうが人生は続く。
ただ、自分は幸せだって言い聞かせて、しんどいことを見ないようにすることで自分を保っている人には、私のこの考え方は毒になるだろうな。とも思う。
私のパートナーは、一緒にいる時によく「幸せだ」と言う。それに対する私の正直な答えは、「あなたが幸せでよかった」である。「私も」と、つられて言ってしまうことがあるのをここで懺悔するが、これも上記の「幸せと言い聞かせている行為」に該当する。楽しい時間を共有することはできるのだが、「幸せ」とは、質が異なるように思う。
通奏低音、と友人は表していたか、私の場合は地下水脈のように、自分のうちに苦しみが在る。時々、川になったり滝になったり、雨になったりする。消えてはくれない。もうその苦しみを見据えてしまったあとだから言えるが、見ないようにする方が苦しいのだ。生まれて、言葉を獲得するように、覚えてしまった。自身の一部なのだ。もう、忘れられない。
幸せの水源を心に持つ人もあるのだろうか。
苦しみの中にも、幸福を感じる瞬間がきっとあるだろう。あってくれ。両立するはずだ。だから苦しみを避けるために幸福を使わないようにしたい。
たぶん、分からないけど、自分にできる事をして、日々の暮らしを続けて、自分の心をごまかさず、誰と比べるでもなく愛する気持ちに真摯でいられたら……悔いのない一日を送ろうとするうちに、その時は来る、と信じたい。分からないから、分かるまで生きるしかない。まだ会ったことのない待ち人を見つけるまで。
それまで、みなさん、私と同じ世界で生きてくれますか。