12歳のときに亡くしたはずの両親との再会、最初はアダムの夢かと思い、けれどどうやら本当に電車で移動しているようだからじゃあ幻覚?タイムスリップ?などと考えて見ていたのだけど、見ていくうちにそれがどういう事象なのかは重要じゃないなと気づいて気にしなくなった。なんとなくあの家だけあの世から現世にタイムスリップというか浮かんできたイメージでSFかファンタジーの感じで見ていたかな。そのせいでラストの死体にぎょっとしてあそこだけホラーの文脈になった感じがして怖かった。
幼いうちに両親を失った悲しみや寂しさを埋めるだけの話じゃなくて、当時既にうっすらと察していた両親に受け入れられないだろう自分をさらけ出し、受け入れられ、そして愛されていたことを知る、そういうアダムの人生に深く刻まれた傷を癒すというか慰める、そういう話だったなと思う。
見ながら自分の親との関わりについても考えたし、それ以上にものすごく子供について考えた。
映画を観ているのに、こんなに個人的なことを考えてしまうのってなんだか不思議だけど、さっき監督や原作者のご家族のインタビューを読んで、そういう映画だったんだな、と納得した。
アダムの母の後悔を聞きながら、けれど後悔のない子育てができる親なんていないだろうと思った。もちろん、子供の人生に大きな影を落としてしまう後悔もあれば子供自身は全く気にしない類いの後悔もあるだろう。
でも誰だって、一つや二つ、絶対に許せない親からの仕打ちってあると思う。
そして親の後悔と子供の恨みが重なるとも限らない。
そんなことを考えて、ああ、死んだ親との再会が親よりも歳をとってからというのがこの話の優しさなのかもしれないなと思った。
どれほど生々しく深い傷も時間の前ではそのままではなく、子供だったアダムは両親より長く生きて両親よりも多くの経験をして両親の知らない時代の変化を知っている。
そして両親は時代の変化など知らないのだということもわかってる。
完璧な親がいないように、完璧な子供もいないから、どんな子だって親にとって受け入れ難い一面を持っているのだろうと思う。
今はまだそんなところのない新米人類のことも、いつか私は理解できない、受け入れられない、と思うことがあるかもしれない。というか、きっとあるだろうと思ってずっと子育てをしてる。
新米人類が生まれたときからずっと自戒していることの一つに、「子供は自分ではない」というのがある。こうして書くと当たり前すぎるんだけど、「子供は自分ではなく、自分とは別の人生を歩む人間だ」ということ、いつか手を離すときがくる、いつか一人で歩いていく、というのを忘れないようにしょっちゅう言い聞かせている。
間違いなく世界で一番大切で、新米人類が生まれてからすっかり、親が幼い子を残して死ぬ話も子供が親よりも先に死んでしまう話も見るのも読むのも辛くて涙が出るほど耐えられないものになった。でも、死別しなくたっていつかは絶対に手を離さないといけない。いつかこの子はこの子の人生を生きていって、その人生の行き先を親は絶対に決めてはいけない。そう思ってる。
思考をまとめるのにずいぶんだらだらと書いてしまった。
つまり、我が子の幸せを私は強く願っているけれど、同時にそれは「私が思い描く幸せ」と違っていても受け入れるってこと。「私の理解できるような幸せな人生」を送ってほしいのではなくて、新米人類が幸せだと思う人生を送ってほしい。私じゃなくてあの子の人生だから。
子育てに成功も失敗もないと思うけど、この映画を見ながら、ああ、私が目指すのは「親が死んだ後も幸せに生きていけること」だなと思った。
思い返せば、名前をつけたときもそうだった。
名前は生まれて一番最初に親が贈れるプレゼントで、子供が死ぬまでその子と共にあるもの。だから、親が死んでもこの子の人生に寄り添ってこの子が死ぬまで私たちからの愛情を伝えてくれるように、そう思ってつけたことを思い出した。
ほぼノーチェックで飛び込みで観た映画だったのに、思いかけず自分と子供の人生について改めて考えることになった。
こうやって書くことでやっと気持ちが落ち着いてきた気がする。