アドラー心理学の「課題の分離」だとか、定数ではなく「変数」に目を向けろとか。
そうやって、「自分のコントロールできることに集中しろ」というメッセージは至る所に転がっている。
それらを目や耳にしてわたしたちは、「自分にできること、自分で変えられることに集中して頑張らなきゃ」と意気込む。
でも最近思ったことがある。
自分自身のこと=すべてコントロール可能
というわけでもないんじゃないか?
自分自身にまつわることの中にも、①自分でコントロールできないことと、②自分でコントロールできないことの2つがあるのではないかなあ、と。
どうしても、自分の意思や行動でどうにかなりそうなことは「コントロール可能」だと思ってしまう。
でも意思や行動だけでは乗り越えられないことだってある。
なぜなら人間にはそれぞれの特性・適性があるし、人間としての生物的な限界だってあるから。
夜型体質の人が朝型に変わるのも難しいし、3時間睡眠で1年間生活することなんて到底できない。
海老アレルギーの人がエビフライを食べられる日は基本的に来ないし、アルコールアレルギーの人がお酒を飲んだら危険である。
どんなに強い意思を持とうと、身体の不調や病気に抗ってまで何かをすることはできない。疲れていたら自分が目標としていた時間に起きられないことだって、本当は自然なことなのだ。
話すより書くのがすきなひとが、話すのがすきで上手な人に「話力」で勝つのは難しいし、
書くより話す方がとくいなひとが、書くのがすきで上手な人に「筆力」で勝つのも難しい。
だから自分自身のことだって、ほんとうはコントロールできないことがたっくさんあるのだ。
これらを全部、「本当はコントロールできるはずなのに」「私の意思が弱いからだめなんだ」「なんで他の人にできるのに自分にはできないんだ」と自分を責めていないだろうか?
それ、本当に自分の意思だけでコントロール可能なことなのか?
がんばりやさんほど、なんでもコントロールできると思って自分にプレッシャーをかけて、うまく行かないと自分を責めてしまう節があると思う。
でもほんとうは、自分でコントロールできることって、もっともっと限られているのだ。でもその限られた「変数」に気づけてそこに集中できたら、きっと状況は好転しやすい。
コントロールできないことに対していちいち自分を責めなくなると、マインドもだいぶ安定する。
朝型に生まれ変わらなくても、自分なりに生活リズムが安定するように調整していけばいい。
3時間睡眠で生きることはできないから、7時間睡眠で起きている時間の生産性を高める努力をすればいい。
海老を一生食べられないなら、海老以外の美味しい食べ物に出会う旅に出よう。
アルコールがアレルギーなら、ノンアルカクテルを研究しよう。
話すより書くのがすきなら、書く力を伸ばしていけばいいし、
書くなら話すのがすきなら、たくさん話して人の役に立て。
コントロールできないことがあるのは、悪いことじゃない。そんな自分を責めなくていいはず。
自分自身のことも、自分ですべてをコントロールできるわけじゃない人生。だけど案外、全部コントロールできたらつまらないかも。
制限の中で、光を放とう。