父方の祖父の命日なのである。
六月四日。歯の衛生週間の始まりの日。小学六年生のときのこの日、学校から帰宅するとまだ働きに出ている時間のはずの両親が家にいて、喪服の準備をしながら「おじいちゃん、死んじゃったよ」と告げてきた。
祖父は、地元じゃそこそこに名の知られた人だったらしい。
漁村の生まれで豪農の次女の祖母の元に婿入りした彼は、とても働き者だったという。分家ながらに順調に財を成し、稼業の布団屋を営みながらも田んぼをいくつも持って農作業もしていて、晩年は小学校に土地を寄付したほどなのだそうだ。私の父はそんな彼の十一番目の子(末子)で、伯父や伯母たち、そしてもちろん私の父も、厳しく育てられながらも高校相当まではちゃんと行かせてもらったのだというから、時代的なことを考えるとかなりの財力があったことを窺わせる。実際、父の実家は大きかった。元々住んでいた木造の平屋の他に、布団を作ったり打ち直したりする作業用の建物兼倉庫、車が八台くらいは止められる駐車場、そして新たに店舗兼住まいとして建てられた鉄筋コンクリート三階建てが敷地の中にあった。
そんな、一族を繁栄に導いた彼が、死んだ――つまり、それだけ葬儀も大きなものとなる。
葬儀は、大きな家で催された。
伯父伯母その配偶者たちが準備にてんてこ舞いだった中、数十人いるいとこの半分くらいが集められ、会議が始まった。弔辞を誰が読むか決めるのだという。話し合った結果、何故か私が弔辞を読むことになった。市で出している文集に何度も作文や詩が掲載されていたせいだった。しかし私は祖父の末子のそのまた末子、祖父と交流した時間は他のいとこたちと比べてかなり短かったので、祖父に関する情報が少ない。そこでいとこたちが各々思い出話をしてくれて、それをみんなでまとめて弔辞を作り上げていった。
そうしてできた孫一同渾身の弔辞であったが、私は失態をおかした。
読み上げる直前まで正座で座って待機していたため、足が痺れたのである。
名前を呼ばれて祭壇の前まで行くとき、派手に転倒した。それまで悲しみ一色だったその場が騒然とした。笑いは起こらなかったが、心配した伯母たちが三人ほどで支えて立たせてくれて、何とか祭壇の前に辿り着いた。足崩していいからね、と言われたのでそのお言葉に甘え、弔辞の原稿を開く。
内容は、私のほとんど知らない思い出話だ。それを淡々と読み上げていく。多分、伯父や伯母たちも、そんなことはわかっている。それでも、すすり泣く声が聞こえた。
読みながら、私は数少ない祖父との交流を思い出していた。
からかわれることが多くて大嫌いだった名前のことを愚痴ると、「いい名前だ」と言ってくれたこと。
「賞状持ってきたら小遣いやる」「百まで生きるからいっぱい持ってきな」と言って、本当に持っていったらお小遣いをくれて、褒めてくれたこと。
そのくらいしか、ない。
そのくらいしかないのに、私も泣いていた。
「まだ数えで八十八じゃん百まで生きるって言ってたじゃんうそつき」と怒りながら、泣いていた。
マイクから伝わる私の嗚咽混じりの弔辞を聞いて、たくさんいた参列者、更に伯父たちまで泣いた。
そうして彼は、多くの人に惜しまれながら旅立っていった
……のだが、それからだいぶん時間の経った数年前、帰省した際に一緒に墓参りに行った姉が、こんなことを言った。
「おじいちゃんね、おとう(父)らの他によそに子ども作ってたんだって。おとうより上か下かとか、今生きてるかはわかんないけど」
婿入りし、真面目に働く厳格な男だと思われていた祖父。
何やってんねん!
あの日の涙をちょっと返してほしいと思った。
ちなみに、彼の死後、彼の残した多くの遺産で揉めた父たちきょうだいは、以来ほとんど疎遠になってしまったという。諸行無常、盛者必衰。