長い記事である。推敲もせず書きなぐったのでところどころ支離滅裂である。
「記事が長い」とか「要は〇〇ってことでしょ?(笑)」等の感想は筆者への否定である。故に、これらの感想を抱く自信しか無い方は是非ブラウザバックしてほしい。しない貴方を恨みます。
あまりにも自己嫌悪が過ぎて押しつぶされそうになった時期の手記。ちなみに躁鬱を繰り返していたような状況で、自己嫌悪は鬱期に存在した感覚である。後述するが躁期の感覚「開き直り」は今回僕の心を救うこととなる。
簡単に現状をまとめると、今までの人生であまりにも他人から否定されるばかりで、自分の一挙手一投足を自分で否定するまでになったのが僕の自己嫌悪の根本にある。
特に「調子に乗るな」「自惚れるな」という否定が最も自分を苦しめてきたと思う。まさに、これから話したいのは「調子に乗る」「自惚れる」ことを自分で否定してはいけないよという話だ。
「自惚れ」の定義
記事を書いていて意味が揺れてしまった気がするので、ここで自分が指す「自惚れ」を表しておく。 https://news.mynavi.jp/article/20201226-1606682/ 曰く
自分自身に惚れること
実際の能力・姿以上に自分が優れているとおごり高ぶる
ことらしい。序盤での意味は大体これで合っているが、特に後半の方では少し見方を変えて本記事では以下のように捉えている。
(特に得意なことについて)自分自身に惚れること
自分の決定を「誰でもなく自分がそれが良いと思ったから」という理由で行えること。自分自身の決定が一番正しいと根拠なく思えること。「自分こそが一番正しい。なぜならば自分こそがこの世で最も正しいからだ」
「プロの〇〇さんが言ったことだから正しい」みたいなのの、〇〇に「自分」が入るような感覚である。
「自惚れ」がシャドーの一つだった
今までの自分の生い立ち上、自分にとって許せない性格や仕草・態度をユング心理学の言葉を借りてシャドーと呼ぶ習慣が弊社ゆめみにはある。(詳しくは https://qiita.com/Yametaro/items/51e510d9219fa3ca4a09#:~:text=%E5%AD%A6%E3%81%A7%E8%A8%80%E3%81%86%E3%80%81-,%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%83%BC,-%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%84%E3%81%A4%E3%81%A0 等)
振り返ると、「自惚れる奴」「調子に乗る奴」が僕にとってのシャドーだろう。ただ自分でちょっと変わってるなと思うのは(後述に関係するが、この、「ちょっと変わっている」という自認もメタ的にある意味「自惚れ」に含まれるのが面白いところだ)、 他人が自惚れてたり調子に乗っていたりしても別に不快には思わない ところだろう。他人の自惚れはムードメーカーだったり、もし彼が自惚れたり調子に乗ったりした結果失敗を被ったりしても、こちらには一切影響しないわけで、特に不快に思う理由がない。あくまでも自分が調子に乗るのが嫌なのだ。それで何度も失敗したり他人から窘められたり嫌な思いをしてきたからだ。
おかげさまで大学院を卒業するころにはすっかり自己嫌悪の塊になっていた。苦手なことから自己否定が入るのは言わずもがな、もし得意なことで何か成功を収めても「その程度の成功で調子に乗る貴様の姿はお笑いだったぜ」と、成功に対してすら否定してくる自分がいた。こいつはつまり「自惚れる自分(シャドー)」を徹底的に僕から排除したいと考える人格だ。まぁ、この25年間こいつに救われてきた節もあったわけで(例えば、粘り強い性格等は自己否定をしてきたこいつのおかげだろうと思う)、邪険にしては悪いだろうとも思う。
ただ、この「自惚れ否定」をしてくる自分は、例えば親、学校、大学受験、大学院などの仮想敵が居たから安定した 存在であったことが今になって悪影響を及ぼしてきたのだ。
仮想敵が居たうちは、自惚れ否定を受け入れても未来に希望を持つ(というよりは、精算を後延ばしにする)ことで「苦しいのは今だけ」と信じて耐えることができた。
しかし、(掲げている人生目標は未だ達成できていないがそれはそれとして)とりあえず就活で就きたい仕事に就けて、なんの憂いもなく未来を歩めるようになったという段で、「自惚れ否定」がただの苦しみへと変貌した。
「できていないこと」への自己否定は別に良いのだ。単に、解決目標と前向きに捉えることができる。
しかし、できていることすら否定する「自惚れ否定」は、もうそれ以上改善ができないため、自分を納得させるべくいたずらに「敵意帰属バイアス」を加速させ、出会う人全員が自分の存在を否定してきているのだという感覚に陥らせる要因となった。まるで仮想敵の存在を埋めるかのごとくである。
こうなればもう「自惚れ否定」の自分は呪いに近いものである。"彼"を燃料にしてここまで来れたのも事実だが、仮想敵が消え、自分で未来を切り開く段階になった今、ここまでもがき続けてきたこの場所は、もがいてももがいても沈みゆく泥 にしか見えなくなった。
今まで通り、全体的な心持ちとして存在する「過去の自分を否定し未来の自分を肯定する態度」自体は要は「改善したいという希望」であるから多分悪いものではない。
しかし、「現在の自分すら否定し、しかもその否定の責任を他人の中に見出そうとする」自惚れ否定は、明らかにデメリットの方が大きいものだ。こいつにはお別れを言う時が来たようだ。
「自惚れ否定」をすると何もかもがわからなくなる
早速、今から"自惚れ"ようと思う。自分は「メタ的に・客観的に物事や自分を捉えて納得する」のが得意だ。例として、「自己嫌悪・コンプレックスを糧にして挑戦に取り組めている自分が居るから、自己嫌悪が強い自分はそれはそれでいいじゃないか」という考え方がある。つまりコンプレックスに押しつぶされそうな自分のことなんていざ知らず、その状態でも成果を出せているなら良いだろうと考え心を安定させようという取り組みである。そしてここが重要であるが、このメタ的な考えすら今までは「自惚れ」であるから否定されてきた。だって考えてもみてくださいよ?「俺は自分を客観視できている」とか、あまりにも大きな「自惚れ」じゃないですか?「『自分のことぐらいわかっとるわ』って言う奴ほど自分のことわかってないよ」とは、「自惚れ否定」の自分(cv. 友人)の言である。この通り「メタ的に物事を捉えられている」という感覚は"自惚れ"なのだ。
だがこの考え方すら「自分で」否定し始めると、パンクするのは想像に難くないだろう。「自己言及のパラドックス」じゃあないが、あるいは「ロバと老夫婦の話」じゃあないが、どの考え方(自分の考えが間違っているのだろうと考えたとする。お前は間違っているのだからそんなわけ無いだろう。とすると、自分の考えが間違っているという考えが間違っていると考える。お前の考えは間違っているのだから...)をしても「はいはいどうせどう考えたところで全部僕(の存在自体)が間違ってるんでしょ。お前に言わせると」という結論?以外導けなくなるのだ。
頭が混乱しているであろう読者のために「自惚れ否定」の結果筆者がどうなったかを端的に述べると、「何が正解か自分だけではわからなくなり、正解を他人に求めるようになった」。もっと具体的な表現をすると「承認欲求の塊になった」。それはそうだ。自分で自分を褒められないなら、他人に褒めてもらうしかないのだから。
「自惚れ否定」は"リアルの"他人に任せればいい
自惚れないと、自分で自分の決定に自信を持てないと、全てが信じられなくなる。抱いた自己嫌悪すら正しいのか間違ってるのかわからなくなる。その決定を他者に求めるようになる。「自分の(ほぼ)全てが否定される」(「ほぼ」、と付けているのすら、「お前ごときが自分の『全て』を否定できるわけ無いだろ」というありもしないツッコミが脳内から響いたから付けている。記事の文脈に関係ない)というのはそういうことである。
結果としてその決定をしてくれない他者を恨むようになる。これが「敵意帰属バイアス」の正体だろうと思う。自惚れないことが、結果的に他者への呪いをばらまく結果となっているのである。
そもそもなぜ人は「自惚れるなよ」「調子に乗るなよ」等と言ってくるのだろうか?ライバルキャラが言ってくるなら負け惜しみだろうが、そうではない普通のシチュエーションでそのようなことを言われるならば、おそらくきっとそれは「自惚れた事自体」ではなくて「自惚れた結果起きてしまったこと」に問題があった(例えば他者を不快にさせるレベルの自慢をした、等)時だろう。それならば、本来解決すべきは「自惚れたこと」ではなくて、その生じた問題が起きないようにすることである。
ではそう実際に他人から言われるまでは、自惚れるのをこらえるのは意味がない行為だとわかる。そう指摘されたら、付随する行為の中で良くなかったものについて反省するだけでいい。自惚れたこと自体は問題ではないのだ。
「開き直り」と「自惚れ」
どういう時に気分が良くなるか振り返ると「開き直った」時であったことに気がついた。バイトで嫌な上司の元を離れる決断をした時、どれが「お得」か調べ尽くすより眼の前の商品を買ってしまう方が「ストレスが少ない」と気付いた時、最も良い方法がどれかわからなくなった時に、「これが気に入った!気に入ったからこれでいいの!自分がこれと決めたんだ!!」と自分に言い聞かせた時、つまり「開き直った時」にスッキリした気持ちになれた。言い換えると、「自分の決定を否定せず受け入れられた」時に清々しい気持ちになったのだろう。
「自惚れ肯定」にそれに近い感覚を抱いた。「開き直り」も「自惚れ」も自分にとっては「誰にどう否定されようと自分はよく選択をし自分なりの正解を導けた」という感覚なのだ。これ自体を成功体験とし、正しい行為であったと認めるべきであったのだ。
もし仮に「自惚れ」がやはりするべきものではないというニュアンスの語であったとして、それならそれこそ「開き直り」はよくマッチした感覚ではなかろうか。自分を否定されたとしてそれに対して開き直るとは、つまり自惚れ続けるということと同義である。
逆に言えば自惚れ以外は引き続き自己否定してもなんとかなる
出来もしないことを肯定したくはないし、そしてできないままである自分が嫌いなのは引き続きそうなので、性分的に多分今後も"好きで"自己否定を続けると思う。しかし、「自惚れ否定」は他者に呪いをばらまくからダメであった。
自惚れ否定をしない場合、自己言及(嘘つき)のパラドックスは起きないため、「自己肯定」も「自己否定」もどちらも明確になる。そして、もしも成長のために必要ならば、「自己否定」が強くても、そしてそのコンプレックスによる闇の力を得たとしても、自分こそ恨めど「決定の根拠がない!」などと騒ぎ立て他人を恨むようなことはなくなる。
「自惚れ否定」をやめても、「自己否定」によって今まで上手くいっていた手法は引き続き併用可能だし、むしろ闇の抱え具合は低減されて良さそうである。
自画自賛(自惚れることそれ自体)を「増やす」こととは違うのか?
「自己肯定感が低い人がそれを脱するには?」みたいな記事で「自分を褒める・ダメな自分を受け入れる」という項目がある。「結局はそれと同じじゃん。安い考え方wwwお前の人生軽すぎwwwww」とかとんでもなく失礼なことを言うタヒ刑に処すべきふざけた読者であるお前に反論する(まだ敵意帰属バイアスが抜けてない)。
まず前半について、「増やす」だけでは意味がないのだ。心の奥底から褒めてないのに「褒めたことにする」だけでは、むしろ自分を騙していることが浮き彫りになり、皮肉になってしまって逆効果なのである。数を増やすよりも先に心持ちを変えない限り、この解決策には全く意味がない。
次に後半の「ダメな自分を受け入れる」について、確かにこれは僕の主張とほぼ同じ行為であるようにも見受けられるが、ただ一つ違うのは「誰が」ダメな自分を受け入れてくれるかという点だ。
「ダメな自分の受け入れ」に関しては結構前からできていた。しかしそれは結果的に「敵意帰属バイアス」の助長につながった。そう、「できないものはしょうがない」と自分は納得させてみせても「でも他人からみたら自分なんてダメダメなんだろうな」という感覚、すなわち劣等感は受け入れでは消えないのだ。劣等感ごと消すには、優越感ないし「根拠不要な自信」、すなわち「自惚れ」を残す必要があるのだ。そこに自分は気づいていなかったのでこの記事を書くまで劣等感に苛まれていた。
まとめると、「自惚れる機会を増やす」だけではダメで、そもそも「自惚れを肯定」する必要がある。そしてそれこそが正しい「(ダメな?)自分の受け入れ」につながっているのである。
「自画自賛できること自体才能だろう」と思っていたけど、単に「自画自賛行為の否定をしない」だけで良かったというのに気づかなかった点は、確かに自分の間抜けだった点だと思う。でももう気づいたからな!!!お前にバカにされる謂れはないタヒね!!!