コンプレックス持ち無価値コミュ障アラサー。対処療法はあっても救いはない。

namn1125
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公開:2024/1/20

つまらない内容なのでブラウザバックを推奨する。

吐露

おそらく根本的には不治である病の話をするので、これは人生相談とかではない。吐きださないと辛くなってしまうただの愚痴である。使ったことはないがはてなダイアリーに書くようなことかも。公開は後悔しながらするけども、誰も読みはしないだろうから推敲なんてしない。そんな人いないとは思うが、間違って読んでしまったら不快な気持ちになるかもしれないことは注意しておく。注意しましたからね?

僕は様々なコンプレックスを抱えている。僕にはたくさん醜い部分がある。恋愛経験がないこと。太っていること。顔がキモいこと。その他身体的に恥ずかしい部分が多いこと。不器用なこと。どんくさいこと。シングルスレッド人間でコア自体もCeleronを例にするとCeleronに失礼なぐらいゴミなこと。25歳にもなってまともに稼いだことがないこと。貧乏なこと。学生ローン(奨学金のことだが...)を抱えていること。いくつかの金銭トラブルを経験した結果お金が関わると弱くなること。友達が少ないこと。お酒を飲んだことがないこと。ほかの人より流行りに疎く、かといって何かにそれほど詳しいわけでもなく、だれかと話すときに共通の話題がないこと。あるいは、趣味が少ないこと。頭が悪いこと。記憶力が人よりも少ないこと。人の名前を忘れること。耳が人より遠いこと。料理がまともに作れないこと。麻雀が下手なこと。カラオケが下手なこと。運動音痴なこと。大体初めてやることは上手く行かないこと(と最初から諦めてしまうこと)。自分の決定に自信が持てないこと。そのくせ人に一方的に自分が話したいと思うことを永遠に話してしまうこと。得意分野は相手の顔色を見ず永遠に話してしまうこと。話が下手なコミュ障であること。無意識に人を傷つけてしまうこと。作業に取り掛かるまでにものすごい時間がかかること。得意なことがあれば内心調子に乗っており、驕っていること。コンプレックスをたくさん抱えているということ自体。こういう弱い部分がたくさんあることを内心慰めてほしいと思っていること。こういう面倒くさいことを常に頭の中で考えているメンヘラなこと。この記事最後まで読んでほしいなって思っていること。。。。。etc...

分類して抽象化してまとめれば大した数ではないかもしれないが、日常生活を送るとこの変化球で常にコンプレックスに晒されている。

コンプレックスが多数にある原因もまたたくさん思い当たる。

が、おそらくは、特に小学校時点での人間関係が一番影響しており、今日までそれが続いているんだろうと思う。

被害者ぶっている醜い自分を認知してまたコンプレックスを感じているが、書くと、小学校ではいわゆる「キモい!」とか「xx菌ついた!汚い!」とか言われるような側の人間であった。当時のクラスメイトは軒並み嫌いなやつしかいなかったし、仲の良かった友達との間にも優劣があれば劣であったしあるいは距離があった。

残酷だったと思うのは、当時から中途半端に我が強く耐えられてしまったがゆえに、"それ"がいじめと明確に言えるほどのものではなかったことだろうと思う。

恨ませてくれないのだ。一重に、単に、自分は嫌われていたのだ。

こういう小学校経験を通し、そして塾では普通に勉強"は"できたこともあり、当時から「自分はコミュニティからは必要とされない人間なんだ。●●(当時は勉強で、●●は未だに特定の狭い領域の何かが入る)ぐらいしか取り柄がないんだ。」という意識が根底に根付いてしまった。負け犬の意識とでも言おうか。そして無駄な取り柄にすがったせいで他人から好かれようという努力をしなかったのも問題だった。

結果、どうなったか。

他人に期待しなくなり、そして他人に否定された時に急に傷つかないようにするために、予め自分を否定するようになった。心の底にコンプレックスが溜まっていった。そして、接する人すべてが、基本的に自分のことは受け入れてくれないだろう、内心嫌っているのだろう、自分のことなどどうでもよいと考えているだろう、と思うようになった。意識無意識問わず、である。

裏返すと、このころから「誰か自分を見てくれ」と考えるメンヘラだったのだろう。

確実にあったのは「素の自分が受け入れられることはない。自分の存在はコミュニティにとって邪魔なものである」という感覚だった。強い疎外感である。

コンプレックスにもう一つ関係しているのは昨年亡くなった父方の祖父の存在だろう。

祖父は、自慢したがりな性格で、同じ話を何度もし、そして旧時代の家父長制の父、男尊女卑思想な人物だったことより、陰で母より大変に嫌われていた。

だから、長話や、自慢と捉えられるような自分に関することを話すたびに、友達からもきっと母から嫌われた祖父のように嫌われているに違いない、と考えるようになった。しかしながら、残念ながら祖父の血を濃く受け継いでしまったのか、自分は話は長いし自慢っぽいこともしてしまう。友達からは嫌われる一方である。

こうなってくると根本的に自分に価値を感じなくなった。

そして褒められることがあってもそれは「自分自身が褒められたのではなく、自分の行動が褒められただけであり、自分自身が受け入れられたと勘違いすると火傷する」と考えるようになった。例え他人が心の底から喜んでくれる・褒めてくれていることがあっても、いつしか心の中では素直に捉えることができなくなっていた。「表では褒めてくれるが裏ではうざいと思っているに違いない」「親を除いて、自分の存在自体が真に誰かに認められる...受け入れられることはない」と信じるようになった。

つまり、疎外感があり、そして疎外感が解消されなくなった。

疎外感を感じるのも、人から好かれることはないであろうという感覚も、どれも自分自身のこの考え方に原因があるのは明白だが、かといってもう直せるものではなくなっていたのである。被害妄想だと自覚しているが、止めることはできなくなった。

そして、他人が楽しんでいるものを素直に楽しめなくなった。

小学校の時を思い返せば、自分と仲が悪い他人が好きだと言っているものに興味がわかなくなったし、そして今ならば「下手くそw」「にわか乙」と内心思われているだろうなという感覚からだ。

ゲームは一人用を好むようになった。ネトゲはどうせ負ける/迷惑がかかりそうという理由で当然やらなかったし(例外として一時期スプラ2、3にはハマっていたが、スプラ2はほとんどヒーローモードしかやっていない。)、先述した通りお金に苦手意識があったためソシャゲに手を出すこともほとんどなく、"共通の話題"を得る機会もどんどん消失していった。

人とろくに関わっていないのに、人からのヘイトには強く敏感になり、一方で治せる機会はないままになっていった。人間関係に依存した強い劣等感を持っていて、一方では自己完結した希死念慮に常に駆られるようになった。

小学校からのトラウマか、はたまたトラウマを所以とする防衛本能か、自分自身に関してちょっとでも何かを否定されると、瞬間に「この人は自分のことが嫌いである」とゼロイチでデジタルに考えてしまうようにもなった。そして比較的親しい人に少しでも何かを否定されると、目を背けていた事実(嫌わているという思い込み)にショックを受け、反射的にムキになってしまうようにもなった。

まだまだたくさんあるが、とりあえず重症だろうと思う。書き足りないがこれぐらいにしておく。

現状

こんな風に、自分がろくでもない人間であることをよく理解しているからこそ、そして嫌われるような存在である自分に強い罪悪感を感じているからこそ、

すぐに謝罪するし、感謝は何度も伝えるし、ご飯を食べるときは「おいしい!」と積極的に言うようになったし、たとえ自己満足だとわかっていてもこれらがやめられなくなった。もちろん、すべて心の底から言っている。(と自分をだましている可能性もあるが...)

しかし、いや当然ながらこれらで疎外感はぬぐわれない。

「肯定される行動はできて当たり前。否定されるようなことをしてはならない」

自己満足の域を出ないのである。これらの行動の中に、相手が真に求めるもの、そして相手が真に喜び自分を評価してくれるものなどない。(あるいは、あったとしてもわからない)

一方、人間はミスをするものである。自分への否定は自分自身からの物を含め無限に増大していく一方だ。そして最近は根本にコンプレックスがあるせいでムキになった時に酷いことを友人に言ってしまいがちになった。結局最悪な人間である。

「もし消えてなくなっても良いなら、消えてなくなった方が社会のためだ。消えたい。」

そう結論付けるしかなかった。今生きている理由は単に死ぬ痛みが怖いか、あるいは死んだら多大なるものを僕に与えてくれた親が悲しむからである。親は何としてでも幸せにしたい。

親がいない場所では、ただただ自分は他人に迷惑をかけているんだという感覚で辛くなるようになった。

対処療法

この記事を書くに至るまで強い希死念慮を感じ始めたのは最近だが、無意識のうちに昔から似たようなことは考えていたようだ。いつしか「自分を否定しなくて良い理由」を求めるようになっていった。

具体的には、得意なことに対する執着心及びそれに対して成果を出すことにこだわっていた。

小学の時は勉強だけは負けないぞという気持ちだったし、中学の時は数学検定にハマったし(今振り返れば大した級ではない)、高校では全科目では太刀打ちできなくなっていたが化学だけは誰にも負けないように頑張った(恐ろしいことにもう周期表以外全部忘れてしまったが...)。だが昔から一貫して、打ち込めていること以外は全部苦手だった。得意なことにのみすがるような気持ちで取り組んでいたんだと思う。

高校から大学に掛けてはプログラミングに打ち込んだ。打ち込めた理由はいくつかある。数学検定からそうであるが、昔から「実用的で身近でクリエイティブなもの」が好きだったのだ。算数ができれば生活が楽になるし、化学製品こそ最も身近に手で触れるもので工夫ができるものと思っていたし(今思えば中二病的な感覚もあったかもしれない)、最後にたどり着いて未だに好きなプログラミングは、作ったものが即実生活に役立つという嬉しさに喜びを感じている。「自分の行動に意味を求めている」のかもしれない。

プログラミングでもう一つ好きな点はコンパイラからの否定は定性的・定量的なものであることだ。特に現在好きな言語であるRustのコンパイラは、エラーが出ても指示通りに直せばコンパイルが通るという形ですぐに正直に褒めてくれる。先に、「人から何かを否定されると全部否定された気持ちになる」と話した。数学の問題の×にすらこれを感じていた(頭悪いwお前の思考速度おっそ、みたいな。)が、コンパイラは全否定はしてこなかった。建設的で即時的なフィードバックのおかげですぐに成長できた。ある意味僕の人生で僕の行動をちゃんと評価してくれたのはコンパイラぐらいだったのでは、と思うほどである。(が、こう言えるほどプログラミングがつよつよかと聞かれるとそうではないので悩ましいが...)

そして得意分野、特に最近はプログラミングについては、関連する試験や資格を積極的に取るようになった。どんなにゴミ人間でも資格を持っていれば「でもお前〇〇持ってるじゃん」というある種の肯定を否定できなくなるからである。しかし資格を取ったことに驕ってしまえばそれは祖父仕草なので、自分自身からの否定は結局ぬぐえない。先に言った通り、結局評価されているのはあくまでも自分自身ではなく自分がした行動に対してだけなのだ。という感覚がぬぐえない。

でも対処療法と考えると、趣味に打ち込んだり、何かしらのステータスを得ようとしたりするのは筋がいい。

何もしていない時間は、コンプレックスで頭が埋め尽くされてしまうので辛くなる。

一方、バカなりに資格なりなんなりの目標に向かって行動している間は、「まだ死ぬ必要はない」と思えるので一時的に希死念慮が消える。何かに打ち込んでいる間はコンプレックスを思い出さなくてよくなる、というのもあるかもしれない。もっとも、行動している間だけであり、目標を達成し目標が過去のものになった瞬間にまた自己嫌悪に陥るのだが。

今ではこの中毒性のある対処療法に病みつきだ。止まってしまったらたまり続ける負のコンプレックスと社会・友人への申し訳なさで押しつぶされて死にたくなってしまう。希死念慮を追い出すために踊り続けるのがベストなのだ。マグロみたいなイメージだがマグロに失礼だな...うーん、なんだろう。適切な例えを求む。

余計な話が長くなった。こういうところが自分の嫌いなところだ。

しかし本節にはこの「話が長くなった」という事象も関係しているのであえて記事を長くする方向で行く。

成果物として「記事」という媒体が好きになった理由に関わるのだ。自分は現在QiitaやZennに記事を投稿しいいねを欲しがる承認欲求の塊だ。理由はわざわざ書かなくてもここまでを読んでくれればわかると思う。評価されると、瞬間的だがコンプレックスが消えるからだ。特に、QiitaやZennの"いいね"は(程度は違っても)「ホンモノ」だからである。「口では褒めても内心では悪態つかれている」ということは"いいね"には起こりえない。

このホンモノのいいねは記事からしか得られないんじゃないかと思う。発表やプレゼンは苦手なのだ。なぜなら「相手の時間を奪っている」という申し訳なさと「表面上だけの拍手」という虚無的な評価の二十苦を持つ形態だからだ。一方記事はどんなにオタク語りな長ーーーーーーーーーーーい話を書いても、途中で飽きた読者に特別迷惑をかけているわけでもないし、もらえたいいねはホンモノなのだ。祖父仕草なのにいいねをもらえるというこの奇妙な現象に虜になっている。自分の根本はやはり祖父と変わらないのかもしれない。結局、それこそ普段聞いてもらえないと思っているからか、人に話を聞いてもらいたいのだ。

冒頭で「人生相談ではない」と書いたのは根本的治療は無理でもこの対処療法がある上に、この対処療法しかないからだ。踊り方は資格取得や記事執筆から別なものに移るかもしれないが、どのみちとにかく踊り続けるしかない。何もしない大便製造機になった瞬間にコンプレックスがあふれ出して死ぬだろう。。。あまりしたくない妄想である。

結局自分は何を望んでいるのか

人生相談ではないが、記事を書いたこと自体に意味はあると思われるので、それについて言及して閉じたいと思う。

中学の時、雑談していると、ちょっとメタな視点を持つことが多かった美術の先生は言った。

「独り言を言うのは、結局は話を聞いてもらいたいからなんだよ。」

だから、この記事もその通りなのだろう。「ただの独り言」と言いつつ、結局は読んでもらいから書いてあるのである。何かを期待して。

ここまで考えて・書いてわかったのは、自分は

「自分の弱さを受け入れてくれる人を欲している」

ことである。記事を通しうまく言語化できていない部分だが、やはり「他人からの否定」に人一倍敏感になってしまったのは、「根本的に自分は誰にも受け入れられない存在だからだ」という被害妄想が原因だろうと思う。

その事実から目を背けたいがためにできる限りのことは尽くしてきたつもりだが、結局嫌われているんじゃないかという感覚はぬぐえなかった。

逆だったのだ。「褒めてほしい」のではなくて、「醜さを知りながらも肯定してほしい・否定しないでほしい」のである。

全く否定しないでほしいということではなく、、、ある意味でこの記事の内容を理解してくれるというか、共感してくれるというか、、、自分が多少やらかしても、逃げずに一緒にいてくれる友人・恋人の存在を結局は欲しているんだろうと思う。

こんなコンプレックスマシマシの人間を生み出さないため、小学校時分に僕の隣に必要な存在だっただろう。共にいるだけで、弱い部分を見せても、迷惑がってきたりしない、気が置けない友人である。

...まぁ、叶わぬ願いだろう。なぜなら、該当しそうな友人なら(自分で言うのはアレだが、これまでの善行のお陰か)少ないながらも既に何人かいるが、自分がそういう友人を作れていないと信じてしまっているからである。結局まずは自分が変わる —— 信じる —— 必要がある。

信じるために、コンプレックスを除く努力が必要だ。

努力した結果として変わった自分を好いてくれている人が居ても結局「自分自身(弱い自分)」ではなくて「自分の行動」を好いてくれているんだという感覚はぬぐえないであろう。

だが、弱い部分を晒せるようになるためにこそ、どのみち直せるコンプレックスは直していく必要がある。直したコンプレックスの数だけ「疑い」が消え、弱い部分も受け入れてもらいやすくなるし、自分も「弱い部分を受け入れてもらえた」と信じられるようになる。

心持は違っても結局やることは変わらないわけだ。

25歳の自分の恥ずかしいポエムを書き尽くせただろうか。ここまで読んでいただきありがとうございます。長文駄文失礼しました。

@namn1125
Rust好きプログラマ