通っているクリニックの、最後の通院日だった。8年前、不眠で訪れたそこの心療医にADHDの薬を処方してもらってから、わたしの日々生きる世界は大きく変わったのだった。オフィス街のすみっこにあるもうすぐ取り壊されるという古いビルの上の方。そこに行く階段はぐるぐると渦巻いていることを、たしか8年前にどこかに書き付けたのだったっけ。いつも通りの問診を終え、ひとりしかいない見慣れた医師に短く礼を伝えて支払いを済ませる。「これまで通りやってね」という最後にもらった医師の言葉を、そこに乗せられたいつもより一層やわらかいなにかを崩さないよう階段を降りながら、おまじないみたいに段数を数えた。一歩一歩、足を踏み外さないよう丁寧に。つまずき転げ落ちる想像はいつもわたしを怖がらせるけれど、ゆっくり落ち着いて降りればだいじょうぶ。白くて清潔なクリニックから地上に戻り、ビルを見上げたかったけれど、何食わぬ顔をしなければ受け取ったやわらかいなにかを守れない気がして、そのまま大通りに出た。歩きながら58段、と呟く。58段。8年間、1度も転げ落ちなかった段数。あのやわらかさをいつか思い出せなくなっても、この数だけは覚えておけますように。やがて信号が青になって、おまじないの数字を心のなかで繰り返しながら、わたしは大通りの横断歩道を向こう側へと渡っていった。