ファイト・クラブをやっと観た。
この映画の前半は、「他人から自分の人生を取り返す話」だ。
主人公は安定した職につき、上司からの評価も良く、財産を築き、誰もが憧れるような物質的に満たされた生活を送っていた。
しかし、雑誌に載っている理想的な生活をいくら追求しても、精神的に満たされることはなかった。
他者からの評価は高く、相当お金を稼いでいるのに、精神的には満たされていない。
これは、主人公だけではなく、現代人に共通して生じる現象だ。
ラランドのサーヤも同じような悩みを歌詞に込めていた。
安定の生活
それとステータス
望んでたものは手に入れたはず
ぽっかりと空くこの胸は何
また手伸ばしては探すばかり
作詞: CLR, 2024年 礼賛「生活」から引用
有名大学に通っても、安定した職業についても、他者からの評価が高くても、お金を稼いで欲しかったものを手に入れても、なぜか虚無感を感じる。
その原因は、どのように生きるかを決めるのに、自分の外側ばかり見ているからだと、映画の登場人物タイラーは言う。
我々は何をしたいかを決める際に他者の顔を気にしてしまう。有名大学に進学した理由は両親を安心させるため。安定した職業を選んだ理由はローンの審査を通しやすくするため。お金を稼いで買ったカバンは銀座の一等地に店舗を構える誰もが憧れるブランドだから。
何か決定を下す際に自分の内なる心の声に耳を澄ますことができていない。
タイラーは主人公にそう主張する。
しかし、タイラーの言うように内なる欲求に完全に服従していいのだろうか?
映画の主人公は、内なる欲求に従って生活を始めた。
病気を患っていないのにがん患者のグループセラピーに参加し、自分よりも不憫な人を見て安心したり、がん患者のふりをして相手の同情をひいた。
また、大勢の男たちが集まって1対1の喧嘩をする場「ファイト・クラブ」を結成した。それだけにとどまらず、暴力行為を次第にエスカレートさせ、最終的には破壊行為を行うテロ組織となってしまう。
これらの行動は動物としての本質的な欲望が根底にある。
他人を見下す、注意を引く
暴力、破壊
自身の根源的欲求に従った主人公は、最終的にはその欲求によって自滅してしまう。つまり、内なる欲求に完全に服従してもうまくいかないのだ。
他人の欲求と自分の欲求は、どちらかに極端に偏るのではなく、中庸を取ることが大切だ。
そのためには、他者が求めていることと、自分が求めていることを知り、それらをある種ただの判断材料とみなす必要がある。つまり、一人称視点で世界を捉えるのではなく、自分と他人の欲望を客観視し、判断することが必要だ。
客観視、つまりメタ認知。この映画全体を通してのメッセージは、メタ認知だと解釈した。