本とふせんとクジャクの骨

nanase
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 本にふせんを貼るのが苦手だ。マーカーで彩ったり、ラインを引くのも苦手だ。本に手を加えるおこないは、本来まっさらであるべき本を私の色に汚しているような、とてつもない罪悪を犯しているかのような気持ちになる。どうしても「ここ」という目印が欲しくなったときにだけ、しぶしぶとふせんを貼り付けた。とはいえ色とりどりのふせんをはりつけた本は、クジャクの尾羽のようにけばけばしい。緑色のクジャクが一匹。青色のクジャクが二匹。一冊あたりの色を統一したところで、どっちにしろクジャクはクジャクだった。自己主張がたいへんはげしい。ページを繰っていく没入のさなかに、視界のはしっこでクジャクの羽がぎらぎらとちらつく。目をうばわれて集中できない。結局いやになり、すべてはずした。

 とはいえ、最近、本を見ながら文章をかく機会がふえた。私の頭はたいへんに広大な知識をつめるには足りないので、とうぜん、いくつもの書籍を手元にひろげて、巨人の肩の上をあっちへこっちへ渡り歩きながら書いていくことになる。この本のあのあたりとめやすをつける。あの本はこのあたりに書いてあったことがよかった。そのたびに本をあけて、記憶を頼りにめくり、欲しい部分をひっぱってくる。一旦とじて机のわきにのけ、また必要に迫られてひらく。推敲のなかでいらない部分を消す。いらないと思ったはずの部分がまたあとから書く必要がでてきて、同じページを探しにいく。探しものからはずれた部分を熟読しはじめ、溶かさなくてもいい時間がどろどろと溶けていく。……さっきのあのページにふせんを貼っておけばよかったものを。

 そうしてむだづかいした時間もたいそう積み重なったころ。業を煮やして、とうとう買った。「透明ふせん」とやらを。

 透明とはいうものの、半透明のトレーシングペーパーのようなマットなフィルムだった。下の文字は透きとおってみえるし、光沢や反射がないから、白い紙面の一部としてうまいこと埋もれている。なるほど、これなら目立たない。なにかを貼っているようにも、一見したところみえなかった。粘着のりのついた面が広く、インデックスがわりにしようとすると、ほんの少しだけ、一センチに満たないほどの端がぴょんとページから顔がのぞく。

 こころみに本の一冊にはりつけて、イチから読みなおしてみることにした。ぴらぴらとした部分が指にふれるものの、色がちらつかない。そこまで集中を乱すことはない。もう一枚、二枚と枚数をふやしてみる。透明なクジャクが気になって仕方なくなったらいやだなあ、と懸念していたが、そうでもない。クジャクはちょこんと座っていたものの、色とりどりのクジャクよりもずいぶんとひかえめでおとなしい。いいぞ、このクジャクなら共存共栄できそうだ。もっとはやく買っておけばよかった。

 読みおわると、透明なふせんがずらりと並んでいる。半透明のフィルムがはしばしにとび出ている姿は、誇らしげなクジャクというよりも、中性紙をやぶってあらわれた鳥の骨のようだった。透明になるまで漂白されたクジャクの骨だ。そういえば私は昔からトレーシングペーパーとか、透明標本とか、ハーバリウムとか、すりガラスとか、そういったものが好きだった。透明な骨がならんでいる背表紙は、そういった好みにもよくそぐう。

 そうと決まっては、さまざまな本の「あのあたり」と「このあたり」をめくり、すべてにクジャクの骨をいれた。透明な骨をはみださせた本がつみ重なった。これでよし。ひとたび鳥の骨のようだとおもえば、本の山も博物館のようにもみえてくる。うれしい。博物館は図書館とおなじくらい好ましい。そうしているうちに時間はほどほどにとけた。この文章もほどほどの量になったからには、そろそろこちらを書いてばかりはいられなくなってきた。もとの道に戻っても、つづきはそんなに迷わないだろう。クジャクの骨をつれている。ふるびた思想の道しるべとして、透明な骨は、きっとよいつれあいになってくれるだろう。