とても強い思想が見えると思いますが、私は「宗教は人に強要しない限りは心の支えになるものなので、個人の自由で否定するべきものではない」という考えです。よろしくお願いします。
前回の続きの前に、少し時系列は遡りますが私の小学校時代の話をさせてください。
当時私は正義感が人一倍強い性格で、曲がったことは絶対に許せない人間でした(今も本質は変わってないかも)。間違ってると思ったことには意を唱え、先生に告げ口をする...そんなガキだったので、当然のごとく、いじめられていました。今振り返ると当たり前に感じますが、正しいことをしているはずなのにいじめられる、ハブにされるというのは小学生の私には理解できませんでした。
閉じたコミュニティだったので、中学生になり、「真面目ちゃん」を卒業してもなお、いじめの余波は残り、1部友人はいたもののあまりいい思い出は小中学校にはありません。
で、ここまでは長い長い前置きで、ここからが本題です(読みにくくてすまん!)
中学生の時、ふと私は思いました。「なぜ、会合とやらに連れていかれ、毎日のように祈っている私がいじめられ、ハブられ、嫌な思いをしなければならないのか。」と。当たり前なんです、嫌われるのは。でもガキだった私は正しいことをし、祈っている自分がいじめられる道理はないと、そう思うわけです。
祈ること、そして創価学会に強い不信感を持ちました。インターネット環境のなかった我が家ではその疑問を誰にも話すこともできず、調べることもできず、ただただ不信感がつのるばかりでした。
不信感を持って聞いていると、祈りによって実現した成功体験も、祈りによって治ったという病気も、本人の努力のおかげでは?と感じるようになりました。祈りの時間をさらに努力に費やした方が成功するんじゃないかと、理系効率厨の私は考えてしまうわけです。
高校生になった私は、宗教についてさらに知識を得、スマホを手に入れたことでインターネットにおいて様々なことに見聞を得、創価学会に関しても長い時間をかけて調べました。創価学会の悪い噂、創価学会の悪い噂、創価学会の悪い噂...インターネットとはそういう場ではありますが、さすがに悪い噂が多い!
そうして、創価学会、さらにはそこから来る宗教そのものに対する不信感から、神なんて仏なんていないと、人によっては激怒しそうな思想を私は持っているわけです(キレられたくないのでこういう場でしか話しませんが)。
こうやって私は創価学会嫌だなぁと思うようになりました。また弟も、インターネットに触れた頃に創価学会に不信感を覚えたようで、私と同じ立場に立って話せるようになりました。
長くなったので今回はここまでにして、また書きます。また脱線しそうではありますが、父親の人格について、もっと語っておきたい気持ちがあります。