先ほど、こんなポストが流れてきた。
私が勤めていたプラントメーカーでは「KKDDで仕事するな」という標語が貼ってあった。いわく「勘と経験、度胸と妥協」だとのこと。
私は「ああ、いい企業だな。まあ、このくらい当然どこも守っているはずだけれど。」と思った。が、なんとなくリプライや引用を除いてみた。大半がいい言葉だと褒めていたが、こんなものも少なくなかった。
「でも勘も経験も度胸も妥協も必要なんだよなあ」
「この4つで仕事してるのが自分だ(笑)」
…正直、怖いなと思った。元のポストは、これらのものを全く必要ないなんて言っていない。それに反論しているということは、「しっかりした根拠よりも、これらを最優先にして行動・決定をしている」ということ、だと思う。
(そこまでちゃんと読まず、脊髄反射で返信しているだけの人かもしれないが)(そんな人がたくさんいるならそれはそれで怖い)
こんな話、最近どこかで見たなと思ったら、某新聞の「エビデンスが無いと駄目ですか?」という記事だ。悪い意味で話題になったので調べればすぐに出てくると思う。
これはエビデンスが悪、と言いたいのではなく、数値で出ない「気持ち」も完全に無視してはいけないという話だったと思う。
いつでも数値的な根拠が必要で、自分の経験や考えには価値がない気がしてしまいます。
でも、「気持ち」や「感覚」は絶対に根拠にはならない、してはいけないものだと思う。
無視してはいけない、それでも最終的な決定権を持たせてはいけないもの。ぼんやりしていて変わりやすく、言ったもの勝ちで、インターネットでは気に入らないものを排除するための武器。いわゆる「お気持ち」。
これで世界を動かすのが当たり前になってしまったらどうなるか。小さな子供に操縦桿を握らせるような、サイコロで行き先を決めるようなもの。そういう無茶苦茶を防ぐためにエビデンスがある。
じゃあ「気持ち」や「KKDD」(この場合、主に勘と経験)を無視しない方法は何があるかというと…ちょうど、この記事が自分で答えに近い記述をしているように見える。
個別的な経験から普遍的な意味を取り出す
記事の引用だが、これは勘と経験を役立てる方法のひとつだと思う。つまり、曖昧なものをそのまま使うのではなく、
「勘や気持ちを調査し、数値化し、エビデンスにする」
という段階を踏むことが必要だ。
実際、最初の調査のとっかかりは大抵「勘」や「感覚」だ。職人の勘で行われてきたものを機械化する。伝承や噂から、災害の前兆を見つけ出す。「なんとなくいつもと違うような気がする」点を調べ、不具合を見つける。「なんとなくこうだと思う」から仮説を立てる。どんなものも、出発点は大抵「なんとなく」だ。
ただ、調査をせず「なんとなく」の状態のままそれをそのまま持ち出すと、「間違っているかもしれないものを根拠にする」ことになる。だから調査をする。数値化する。明確なソースとして形を整える。
ここまでやって、エビデンスを名乗れるような形にして、議論の場に出す。そういうことを、社会はずっとやってきた。エビデンス不要論は、この段階を端折ろうとしているから反対された。
最初のポストの話に戻るが、KKDD(勘と経験と度胸と妥協)は不要かと言われればそんなことはない。ただ、これをそのまま持ち出し、決定の根拠にしていいのは、「なんとなく」の段階で通さなければならないくらい緊急性の高い時だけだと思う。
もしくは、「なんとなくここ危ない気がするから、もう一度チェックしておいて?」のように調査依頼をするときだ。「勘」をしっかりと調査し「根拠」にする、そういう感覚があるのであれば、「KKDDで仕事をしている」とは言われないだろう。