タイトルを入力するだけでも、この言葉は重みがある。今のわたしには縁遠いからなのだろうか。
先日、婚約届の証人として署名をした。
ついに仲良くしている友人の中から結婚する子が出てきたのだ。そんな年齢にいつの間にかなってしまったことを実感せざるを得ないことに少しつらい。
もう人生を無責任に過ごせないのかもしれない。考えないといけない。望むことと望まないこと、というか諦めるといった方が正しいのかな…そういうことを。
久しぶりの帰省がてら同期とお茶をした。
主に愚痴と近況報告で盛り上がった会話の中で、この4月から同棲をはじめたという話を聞いた。
着々と人生を歩んでいる。しっかりと未来を望んで歩んでいる。覚悟をもって人生を選択しているんだと思ったら、わたしは、なんて子供のままなのだろうかと氷で薄まったジュースを飲むしかなかった。
「結婚」ってすごい。漠然と。なんだかすごい。
ふたりで交わす契約。契約は硬いから約束がいいな。この先も共にありたいと願う約束。とても心強いと思う。一生の味方なのだから。
ずっと誰かと結ばれるイメージがわたし自身に湧かない。望んでいないわけではないと思うのだが、考えることから逃げている。それもずっと昔から。だから分からなくなってしまった。望んでいることも本心が何なのかも。
羨ましく思う。自分の味方であり、愛されていると疑わない存在がいることを。決してひとりではないと思えることを。
それと同時に幸せの代表例だから。何をもって幸せかってことの一般的な答えのひとつだから。
職場にとても物腰が柔らかくてやさしいパートさんがいるのだが、派遣社員の面接があった際に「面接に来た方はご結婚されているから、普通の主婦みたいね」と話していた。本人にとっては、なんてことない言葉だったのだと思うが、ここでいう「普通」って世の中一般的な幸せである「結婚」をされているか否かで判断されているんだという事実にショックを受けた。
幸せを測るとき、世の中一般的な幸せを物差しにしなければ、そもそも幸せかどうかを定義できない節がある。とても残酷なように思えてしまう。
結婚って奇跡のようで努力である気が最近する。
ずっと避けて考えないように思考を止めていたわたしにとっては、人生に向き合う努力のひとつな気がするのだ。変な話だと思う。そんなこと誰も考えないと思うけど、わたしは考えないと向き合うこともできないのだ。
自分の人生の責任から逃げている。
幸せになりたいと祈るのに、他の人と比べて幸せかどうかを測ろうとする。なんだか生きづらい。
生きづらいからこそ、信じて疑わない存在(心からの味方)がほしいと思っていることは確かだ。それが結婚の形であるかどうかは分からないし、あまり問いたくない。
そろそろ人生に責任をもつべきだ。
子供ではない。