人間はそこそこの大きさに育つ頃には、自分の親や地域、周辺の文化をインストールし、それを”当たり前”のものとしていく。
どんなものと接しても、自動処理する能力がつく。
たとえば、林檎を手にとって脳内に思いつくのは、これで何を作ろうか、どうしたら美味しくなるのか、ぐらいだろう。
「異化」とは、日常の中にある”当たり前”のものを、意図的に違うレイヤーでまなざすことである。たとえば、林檎が内包している物語や時間を想像することができれば、林檎はただのリンゴではなくなり、その林檎を調理して食べることも特別なことになる。
誰かを見つめるとき、知ろうとするときにも、複層的な物語を得ようとすれば、特別な対話になるはずだ。誰しもが個別の命をもち、特別な道で歩いてきているのだから。
ひとを記号化しないで受けとめること…機能として、歯車として、モノとしてしまわないためには、このまなざしが必要なのだと思う。