「異化」というまなざし。

人間はそこそこの大きさに育つ頃には、自分の親や地域、周辺の文化をインストールし、それを”当たり前”のものとしていく。

どんなものと接しても、自動処理する能力がつく。

たとえば、林檎を手にとって脳内に思いつくのは、これで何を作ろうか、どうしたら美味しくなるのか、ぐらいだろう。

「異化」とは、日常の中にある”当たり前”のものを、意図的に違うレイヤーでまなざすことである。たとえば、林檎が内包している物語や時間を想像することができれば、林檎はただのリンゴではなくなり、その林檎を調理して食べることも特別なことになる。

誰かを見つめるとき、知ろうとするときにも、複層的な物語を得ようとすれば、特別な対話になるはずだ。誰しもが個別の命をもち、特別な道で歩いてきているのだから。

ひとを記号化しないで受けとめること…機能として、歯車として、モノとしてしまわないためには、このまなざしが必要なのだと思う。

@nao_nanashima
補助線としての思考。@manaka_kotohogi