『糜爛』④

nao_ser
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 某日。一杯の蟹を鷲掴みにして、又隣のドアの前に立つ。押そうか押さまいか。チャイムの前で思案する。相手が甲殻アレルギーである可能性もあるし、しかもこんな直で蟹を貰うことなんてないだろうから、やはり迷惑だろうか。

「なんしようと?」

 ぐるぐるしていると、後ろから声をかけられたので、思わず飛び退いた。彼の部屋のドアノブに背をぶつける。声の主はその部屋の主でもある、陽樹さんだった。彼は僕が握りしめている蟹を見やると、ぱっと目を輝かせた。

「え!すごい。カニ?」

「そうです。そこの商店街でマダムを助けたらくださいました」

「それは良いことしたね。鮎ちゃんは偉いね」

 自分だってこの前俺のことを助けてくれたくせに、人のことはそんなに簡単に褒めるのだな。それから、当たり前に渾名で呼ぶのだな。うろうろ思案していた自分が馬鹿らしくなる程に、彼の笑い声は明るい。

「良かったらどうぞ」

 その声に促されるように何も考えずに差し出してみたが、握りしめた蟹を差し出す、差し出されるという状況下の滑稽さに、さすがの陽樹さんにも困惑の色が滲む。僕は考えないことに向いていない。冗談ですよ〜とでも取り繕おうかと慌てて口を開いた瞬間、陽樹さんは握手をするかのように蟹を握り返した。

「鮎ちゃん、カニ鍋派?それとも押し寿司派?」

「何でその二択なんですか」

「一緒に食べませんかってことよ」

 開けっ放しの口が所在なくぱくぱくと繰り返すのを、彼は承諾と受け取ったのか、早口で「ちょ、待っとってね」「急いで片付けてくるけん」と言って部屋の奥へ引っ込んだ。とってつけたような標準語にスタッカートをつけたみたいな溌剌とした方言とが混在した、彼独特の言い回しは、まるで犬が尻尾を振っているのと同じように感じる。

 閉まった扉の前で待つこと数分。その間、確かに奥の方から何やら物音がバタバタとしていたが、あれだけ整頓された物の少ない部屋の何を片付けているのだろうと不思議に思っていた。僕の神経質そうな容姿が、整った部屋という概念のハードルを上げさせてしまっているのかもしれない。そもそも部屋に上がるつもりもなかったのだが、結果的に押しかけた形になってしまったことにも申し訳無さを感じる。そんなことを考えている内に、ガチャンと開いた扉から陽樹さんが身を乗り出して現れた。

「おまたせしました〜。どうぞ!」

「すみません、お邪魔します」

 靴一つ置いていない玄関に、可能な限り丁寧に靴を並べて置く。ほんの少しだけ絵の具のような匂いが漂っている。それすらも、無機質な部屋と相まってむしろ洒落ているようにさえ感じた。

 二回目のリビング。改めて見ると、白いダイニングテーブルに白いチェア、淡いグレーのラグ、アーチがかったシルエットのシェルフには置物が並べられ、壁には絵が飾っている。それ以外は何も置かれておらず、僕の部屋と同じ間取りである筈なので、リビングの他に部屋が二つあるのだが、彼は四畳半ワンルームでも平気なのではないかと思った。

 陽樹さんに促され、以前座った席と同じ席に座る。彼は鍋を真ん中に置くとカチチと火を点け、冷蔵庫から葉物野菜やきのこ類を取り出した。葉物野菜の芯と葉を切り分けたり、椎茸を飾り切りかたりした後、火の通りにくい物から順に投入していく。調味料を配合してベースを作りながら、同時進行で蟹を捌く手際の良さに僕が手を出す隙などなく、黙って鍋が出来るのを待っていた。

「あとは火が通れば完成だよ」

 一段落して向かいの椅子に座った陽樹さんは、ふんふふんと鼻歌を歌っていた。白すぎる部屋、花束を持つ天使の置物、薔薇の絵、素朴な男の鼻歌と、僕と、蟹鍋。アンバランスな空間に身を置きながら、食という三大欲求の一つを今、他人と満たそうとしている。とても不思議であった。

「押しかけたくせに全部やらせてしまって、すみません」

「大丈夫よ。俺、別に押しに弱くないけん。嫌やったらせんよ」

 不思議な人だ。すこぶる明るいのに掴み所がなく、何となく地方の匂いがするのに、アーティスティックなインテリアの中にも馴染む雰囲気がある。僕は彼のことを何も知らないのに、知らないままでいることに怖さがないという違和に、怖さを覚える。人より人を疑う人生を送ってきた僕ですら、会って二回目で鍋を囲んでいるのだ。

 ぶくぶくと鍋が煮える。湯気にあてられて彼の頬はぽわっと赤くなり、その滲んだみたいな黒目に炎が揺れていた。

「鍋なんて久しぶりだな」

 と、溢したように呟いたのを僕は聞き逃さなかった。友達が多そうなのに意外だなと思う反面、恐らくこの辺の出身ではないであろう彼は、地元の友人と長らく会っていなかったりするのかもしれないとも思った。それについて聞くのはどうにも不躾な気がした。

「僕もです」

「そうなん?」

「ええ。だから、今日思い切って陽樹さんのところ来て良かったです」

 この人といると、僕はいつもより言葉が軽くなる。肩の力が抜けて、足が上がりやすくなる。今まで他人に抱いてきた呪いのような好きとは違う種類の、でもこれも一つの好きなのだろうなと思えるような、好き。

 陽樹さんは一瞬虚をつかれた顔をしたが、すぐにぱっと花が咲いたみたいな笑顔になって

「こちらこそ、ありがとうね」

と言ってくれた。それから、蟹を剥くのに苦心していた僕の小皿を取り、するりと身を剥いて渡してくれた。

「あ、すみません」

「鮎ちゃんて意外と不器用さん?」

「勉強以外何も出来なくて」

「俺は勉強だけが出来ないけん、相性良かね」

 いささか強引な理屈であっても、悪い気はしない。鍋の出汁をすすりながらもニマニマと笑っているのに釣られて、僕も顔が綻ぶ。久々に楽しいなと思っていた。楽しいというのは、本来こういう健やかなものであるべきなのだろう。自分を擦り減らすことなんてしなくても、相手から奪うようなことをしなくても、皆はこうして豊かな時間を重ねてきたのだろう。普通は、そうなのだ。けれど僕にとっては特別なものだった。嬉しいと思えば、同じくらいに苦しくなってしまうのは何故なのだろう。楽しいとか嬉しいとか、幸せになることを、拒むのは誰なのだろう。笑みの中に苦虫を噛み潰した変な顔をしながら、僕は蟹を食べていた。どうか、気がつかないで欲しいと思った。

「陽樹さん。お返しがしたいんですけど、僕は料理全く出来ないので、今度は一緒に外食にでも行きませんか」

 陽樹さんはカセットコンロの火を消した。

「俺が作っちゃるばい、またうちに来たら良いよ」

 伏せ気味の睫毛の下で、余った春菊を回収する箸を自ら追いながらそう言った。