『糜爛』③

nao_ser
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 肩までで切りっぱなしにした黒髪と、青白い顔に整った目鼻立ち。ぽっと火照ったように赤い唇がストローを噛む。姉の鯉都はそのアンティークな内装の喫茶店を背景に、一つの絵のようになりながら、艶のある大きな黒目をじっとりと僕に向けていた。

「あんた、その怪我どうしたの」

 姉は低い声で問うた。容姿もそうだが、姉は全ての温度が冷たい人だった。それはあくまで冷酷という意味ではなく、真冬の美しさと厳しさを兼ね備えているという意味である。姉と僕は実に十三歳も年の差があり、早熟な姉は僕にとってずっと大人なのだった。鋭く咎められれば、もぞもぞと口籠る他ない。姉は僕のプライベートが猥雑であることは知っているので、どうしたのと聞きつつも、本意は疑問ではなく、諌めようという姉心にあるのだろう。だから尚更、僕は口籠っていた。

「あんた、あたしに似てきたわね」

 ゼリーの上に鎮座していたマラスキーノ・チェリーをスプーンで転がし、頬杖をつきながら上目に姉の様子を窺う、そんな僕の仕草を厭がって姉は煙草に火をつけた。

「あんたたちは、あたしや母さんみたいになっちゃ駄目よ」

 子供の頃から姉は口を酸っぱくして、僕と妹にそう言い続けていた。それと同じくらい『あたしたちは幸せになっちゃ駄目なのよ』とも。クズにも幸福にもならない代わりに、目立たずひっそりと生きることは許されますように。大人だった姉はそう願っていたが、子供だった僕たちは未だそれを受け入れることは出来ずにいる。血がつながっていないからか、僕にも姉にも似ていない伸び伸びとした性格をしている年子の妹は来月結婚式を挙げるらしい。当然姉には反対されたが、妹の鰊寧はそんなことを素直に聞く子ではない。僕にはない強行突破という選択肢。僕は中間子らしい二人の間くらいのスタンスで、ふらふらと駄目な方にばかり寄りかかってしまう。幸せにはなりたいが、なってはいけないという姉の言葉にも理解が出来るから。

 幼い頃に母が事件を起こした。と言っても、実際に逮捕された訳では無い。母はいわゆる後妻業というやつで多額の金を男に貢がせては、男の死後に、これまた多額の保険金を受け取るという行為を繰り返していた。その男の中に大物政治家の名前が連なった、それだけのことだった。雑誌やテレビに取り沙汰され、僕たちきょうだいは真っ当な人生の道を閉ざされてしまった。母は消息を経ち、姉は高校を辞めた。残酷なことに、姉には母の血が流れていた。母と同じようなやり方で稼いだ金で僕と妹を養った。僕にも母と姉と同じ血が流れていた。母は僕たちを苦しめた存在で、姉は自分たちに幸せになってはいけないと言い聞かす。重く、背負うには重く、伸し掛かる。僕は呪われている。そして、どうしようもないくらいに魅せられている。

 美しくなりたい。本当はそれで幸せになれれば良いけれど。無理そうだからいっそ狂おしい程に美しくなりたい。

 姉の吐く息はビターな香りがする。染みついた煙草の味だった。

「姉ちゃんだって、本当は幸せになりたいんじゃないの」

「馬鹿言ってんじゃないよ。本当のあたしを愛してくれる人なんていないわ」

 眼鏡をかけたレトロな風貌のマスターが、姉の前にブラックのコーヒーを置いた。一瞥もしない姉の代わりに、軽く会釈をした。湯気が立ち昇る。僕は何も言えなくなり、固めのプリンをちびちび口に運んでいた。

 僕の好きな人は、姉のことが好きだ。十年以上前から続く僕の片思いと、"彼"の片思いと、そんなことには目もくれない姉の関係性は、様々肩書を変え続けている。姉の紹介でやってきた"彼"はかつて僕の家庭教師であり、大学卒業後に企業をしてからは、僕は彼の秘書をしている。天羽瑠人。僕の好きな人は、繰り返しになるが、姉のことが好きだ。僕が姉に幸せになって欲しいのは、瑠人さんに幸せになって欲しいからだった。瑠人さんなら姉のことも幸せに出来ると、そう思えるくらいに僕は彼のことが好きだった。

 カチャカチャと食器の音だけが鳴る。コーヒーを飲み終えた姉は伝票を掻っ攫って会計を済ますと、特別何かを言うこともなく行ってしまった。体を捻って、タイトな花柄のワンピースを纏った後ろ姿を目で追っていた。態勢を戻すと、デザートカップの上に残されたさくらんぼの種に目線が移る。外連味のある真紅の甘さと、貪られて残る種の俗っぽさにくらくらしてしまったらどうだろう。僕の恋はそんなようなもののように思う。

 脱いでいたカーディガンを羽織り、薄笑みを浮かべるマスターにご馳走さまでしたと告げて、僕は店を出た。